他人の不幸を見て喜ぶ                                     岡森利幸   2009/3/13

                                                                    R1-2009/3/15

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞夕刊2009/2/13 社会面

ねたみや他人の不幸を喜ぶ感情をつかさどる脳の部位を放射線医学総合研究所などの研究チームが明らかにした。

ねたみの感情と他人の不幸を喜ぶ感情は、脳の中の同じ部位でつかさどられるらしい。なお、この場合の「つかさどる」とは、その部位が心の働きを担って、意識の上に乗せて感情を高めているという意味だ。

他人の不幸を喜ぶ感情、つまりあざけりは、よい感情とは思われていないが、これも、ヒトが生きていく上で必要な感情として、進化の結果、獲得した「機能」の一つにちがいない。ヒトの脳の中に「思考回路」として一般的に備わっているのだ。

他人の不幸を喜ぶことは、多くの人が自分の心にもあったことを経験していることだろう。他人の不幸といっても、本当に悲惨な状況ではもちろん喜べないが、他人がへまをして失敗したことや、うらやましい生活をしていた人が没落したり、その人が自分のライバルだったりすれば、「いい気味だ」ということになる。それは、あざけりだ。

ヒトの社会生活の中で、なぜ、ねたみやあざけりという「いやらしい感情」が必要なのだろう?

ヒトは、他人をねたんで、あるいは兄弟姉妹や友人でさえもねたんで、おとしめることがある。自分より優れた人を見ると、あるいは、ひいきされた人がいれば、競争心がかきたてられ、穏やかならざる心境になる。競争に負けまいとする心だ。つまり、ねたみや、うらやましがる感情、あるいは悔しいという感情が向上心をかき立てる。それが人びとを切磋琢磨し合う方向に導くことになる。それが嫉妬によって不当に他人の足を引っ張ることがあったとしても、競争の原理が働き、社会全体をレベルアップすることになるのだ。しかし、そんな向上心をもたない人は、他人に遅れを取ってもぜんぜん平気で、進歩がなく、結局、取り残される。そんな人は、社会的にいなくてもいい人ということになる。

人びとが他人のぬけがけや幸運すぎる利得を許さないのも、ねたみから来ている性向だろう。他人が少しでも得をするような「ぬけがけ」があったとき、「彼は、うまいことやって、ずるい」と思うのだ。自分がぬけがけしたときは、「自分はずるい」と感じるより、「してやったり」という気分になるものだろう。

また、ねたみが、一種の正義感となって現れることもある。「拾った財布を交番に届けろ」というのも、「落とした人が困るだろうから」というより、うらやましさが正義感に置き換えられ、「拾い得は、けしからん」という気持ちの方が強まるからだろう。

 

他人の失敗は、自分が上に立つチャンスでもある。好機が到来したのだから、喜ぶべきことなのだろう。また、他人の失敗はよい教訓を含んでいるものだ。他人が失敗することが、ひとつの「おもしろい知識」として記憶され、自分が同じ失敗を避けるための、有用な知恵となる。自分はそんな失敗はしないはずだという自負心や、自分が失敗しては笑われる羞恥心をもつことも、よい効果を生むのだろう。失敗の知識を共有することが失敗の再発を防止することになるから、これも社会生活を営む効果の一つだろう。

 

 

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