こころの中の声が刺せと言った                             岡森利幸   2009/2/17

                                                                    R1-2009/3/9

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞朝刊2009/1/14 神奈川

横須賀市で昨年3月に起きたタクシー強盗殺人事件の第4回公判が13日、横浜地裁であり、米兵被告の母が来日して証言した。「刺せという『声』に命令された」とする弁護側の無罪主張に沿った証言をした。

証言によると、ウグボク被告は高校生のころから暴力行為や盗みのような非行があったという。ウグボク被告はこれも「声」の影響と主張するが、母親は「今回の事件以前に『声』に関することを聞いたことはない」と述べた。しかし、「今になってこそ声と分かる」と証言した。

息子が凶悪な殺人犯であっても、母は息子の味方になるものだろう。そんな「ゆがんだ母の愛」を法廷に持ち込む弁護側の策略はうまく行くだろうか。

ともあれ、ここで一番の主題となっている『声』の主はだれなのか。

それは自分自身だろう。自分自身の声がそう言っただけだ。まったく他人の声であるわけはない。つまり、被告は、自分の中に人格が二人いて、一人が命令し、もう一人が実行したと言っているのだろう。それでは、自作自演ということだろうか。

「単に実行しただけの『ぼく』には罪がないのだ」と主張するのは、罪を逃れるための言い訳に聞こえる。指図した主犯はもちろんのこと、実行犯であっても、強殺という凶悪犯罪ならば、重罪はまぬかれないだろう。法廷では、犯行のとき、責任能力があったのかどうかが問われるが、刺せばどうなるかなどの予測や状況の認識能力はあったと思われるから、「『声』に言われたから刺した」では、おこがましすぎる。被害者側の怒りを買うだけだろう。

この場合、解離性の多重人格のように、そのときどきで別の人格になりきってしまうのではなく、同時に二つの人格が現れるタイプの多重人格なのだろう。その『声』は絶対的な存在であり、絶対に逆らえないものだったのか。

逆らえなかったというなら、それは自分自身の問題であり、それを解決するためには刑務所でゆっくりと考えるべきだろう。反省するいい機会でもある。

断定するわけではないが、そんな『声』が病的なものとは、私には思えない。だれの心にも潜んでいる衝動的なもので、われわれに常に甘くささやきかけたり、叱咤激励したりするものだろう。

 

 

一覧表に戻る  次の項目へいく

        ハマスのロケット弾攻撃