ネパール王朝の乱                                                        岡森利幸   2008/6/22

                                                                    R2-2008/7/6

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞朝刊2008/6/12国際面

ギャネンドラ・ネパール前国王がついに王宮から退去。王制が名実ともに幕となる。11日中に、王室が静養所として使っていたカトマンズ郊外の邸宅に転居する。

退去前の記者会見では01年の王室乱射事件への関与を否定。ギャネンドラ氏は「国王ではない今ならば真実を語れる」と前置きした上で、「私が関与したとの指摘があるが、非人間的な告発だ。私は親類を失い、妻さえもいまだ銃弾が体内に残っている」と語った。

転居先の邸宅は、共和制移行で政府が国有化した旧王家所有の不動産の一つ。「住む場所がない」と訴えたギャネンドラ氏に、政府が仮の住居として使用を認めた。

 1.ネパール王制

ネパールの歴代の王たちは、ヒンズー教の「生き神さま」(主神ビシュヌの生れ変り)として崇拝され、立派な宮殿や広大な領地、主要な施設を一手に所有し、さらに強大な政治権力を握っていたのだが、民主化(デモクラシー)の圧力に押され、ついに本年5月、民主的な議会によって王制が廃止された。王室のあり方が問われる出来事だった。

現代の大国、中国とインドに挟まれたヒマラヤの地にある、人口約2900万人の小国では、農業中心の産業で貧困層が多い中、閉鎖的で支配力の強い王制が長く続いた。第二次世界大戦の終結時に王の一族がインドに一時的に避難したという混乱があったが、比較的安定した王制が維持されてきた。

しかし、王の一族が政治権力を握り、一国を支配し、贅沢な生活をしていたのでは、貧しい人々の不満が高まり始めた。中世のような安定指向の時代では、王を頂点として一つの国をまとめる、ピラミッドのようなしっかりした社会システムには、それなりに意味があったのだが、現代では、専制政治の弊害だけが目立ってしまう。権力者は、支配者気取りで人々の自由を制約し、それ自身に都合のいいことばかりを行いだす。人々から吸い上げた租税や国の富の多くが王宮のために使われるから、人々の暮らしは少しもよくならない。不満を持つ人々のなかでも、王制にあからさまに反抗するゲリラ的勢力として農民たちの間で武器を持って立ち上がったのが、マオイスト(毛沢東主義者)と名乗る人たちだ。その勢力は地方に限定されてはいたが、徐々に拡大して行く。

前王のビレンドラは、近年の民主化の要求に一定の理解を示し、1990年に、民主化への一歩を踏み出している。政党政治を認め、立憲君主制を採った。多くの民衆が歓迎した制度改正だった。ただし、神聖で高貴な存在としての王制を存続させることが前提であり、王制の下で政治権力だけを民主的議会に移行するものだった。政府も軍隊も、国王の下に置かれていたから、国王の権威は、まだ強く残り、まだ少数派だったマオイストたちにとっては不満足な内容だった。

このとき、旧来の王制の維持を強く主張し、兄ビレンドラの民主化方針に反対したのが弟ギャネンドラだったが、聞き入れられなかった。

 

 2.ネパール王族殺害事件

2001年6月1日に起きた、宮廷内での月例の晩餐会にビレンドラ国王やディペンドラ皇太子などの王族10人が銃で殺された事件は衝撃的だった。この「ネパール王族殺害事件」では、まだ多くの疑問点が残されている。

@ 王族たちほとんど全員が会に出席していたのに、ギャネンドラだけが出席していなかった

A ギャネンドラの妻(パラスの妻という説もあった)が足に負傷しただけで、ギャネンドラの一族たちだけが生き残った

B 銃撃のとき、警備の親衛隊は、その騒ぎに気づかなかったという。(見て見ぬ振りをしていた?)

C 銃で自殺したとされるディペンドラは、後ろから銃撃されている

D 銃を乱射した者は軍服を着ていたという証言がある

E ディペンドラ皇太子が、親しい女性との結婚を父母に反対され、逆上したという説が出されたが、晩餐会では、ディペンドラの結婚に反対するような話は交わされなかったという証言がある

 

ディペンドラ皇太子が銃を乱射して9人を撃ち殺し、自分も銃で自殺したというのが、当初の発表だったが、その後、政府は、ディペンドラが自室に戻り、軍服に着替えて銃を持って乱入したという説明や、銃が暴発したという説明に変えたりした。一貫性がなく、どれも途方もないことや、つじつまの合わないことばかりだ。その場にいて、生き残った人々はギャネンドラの息のかかったものたちだから、証言は当てにならないだろうし、それらの証言はほとんど聞こえてこない。側近で固められた事故調査委員会では、まともな報告内容を公表するはずがないし、死亡した王族たちの葬儀がすぐにとり行われたから、被害者の検分や検視など、ろくに行われなかったと推定される。国の最高権力者が支配する宮廷内での銃撃事件は、警察の手が及ばない「治外法権」の事件として、警察は処理せざるをえなかったようだ。結局、警察のまともな捜査も検証も行われずに、すべてがうやむやのままなのだ。

ギャネンドラの一族が生き残った。中でも、ギャネンドラの息子のパラスはその場にいながら無傷だったことから、バラスが実行に大きく関わったという疑いも強い。パラス自身がマシンガンを撃った可能性は低いとしても、パラスが側近たちに指図、あるいは手引きした可能性は十分にあるという見方だ。そんな状況では、ギャネンドラが背後で糸を操っていたという「ギャネンドラ関与説」が浮かび上がる。ギャネンドラが王位に就くために、すべて仕組んだことという疑いが強くもたれているのだ。

つまり、ギャネンドラの一族が起こしたクーデターという見方だ。ギャネンドラが別のところにいたというアリバイがあっても、あらかじめ実行犯に指示することは可能だし、その実行犯はギャネンドラに忠実な警備兵たちだったと考えるのが自然だろう。ともあれ、この事件で国民からの尊敬と信頼を一気に失ったことは確かだ。死亡した前国王を悼み、新国王の政権に抗議する運動が、民衆の間ですぐに各地に広がった。前国王は、比較的国民の信望が厚く、敬愛を集めていた人だったから、この政権交代は、ことさら強い不信と反発を招いた。

 

 3.王位継承

自殺を図ったとされるディレンドラが意識不明のまま、三日後に病院で死亡した。その間、第12代国王として即位している。瀕死の重傷であったも、王位を持つ父母兄弟を殺した張本人であっても、序列で定められている限り国王になれるのだから、すごい「王室典範」である。次に、王位継承の順位により国王に即位したのがギャネンドラだ。王位継承権の上位者がすべて死んだから、王位が自分に転がり込んだのだ。

ギャネンドラが第13代国王として即位するとともに、その息子パラスが次期王となるのに一番近い位に就く。皇太子になったのだ。この息子が「ドラ息子」の典型のような人物で、女、麻薬におぼれ、したい放題の生活をして、国民の不評を買っていた。自分で車を運転し、交通事故を何度も起こしている。ときには、ひき逃げし、事故の責任を手下になすりつけた疑惑も持ち上がっている。しかし、そんな事件の真相はすべてうやむやにされ、パラスは事故の責任を何もとっていない。報道規制があるにも関わらず、そんなドラ息子であることが国民の間に知れ渡っていた。それでも皇太子になれば、将来国王となることが約束されたことになる。それを想像すると、国民としては「ぞっとするような」ことだろう。ヒンズー教の神の再来どころか、「疫病神」が王さまになるようなものだろう。王として崇拝する気にはとてもなれないどころか、王権を振るって、彼ならば平気で民衆に向けて銃を乱射することもしかねないというような、どんな卑怯な手段で圧政を加えるか分からないという不安をもたせる人物だろう。

ギャネンドラは、誕生した年の差により王族の本筋から外れた、傍系の王族として生きてきたから、そのまま本系が存続し、やがてその皇太子が王に即位するようなことになれば、自分は権力の座につくこともなく、「王の予備」の1人として一生を終えるはずだった。パラスなど、彼自身も周囲の人々も、それまで王位に就くことを考えもいなかったのだろう。王族としての自覚もなく、王としての教育(帝王学)も受けていなかったのだろう。

 

 4.ギャネンドラの思い

ギャネンドラには、誇り高い王族の1人として、自分が権力の座について君臨してみたいという権勢欲があったかもしれない。それよりも、王制の存続に危機感を抱き、200年以上続いてきた王制をこのまま将来にわたって維持したいという気持ちの方が強かったと私は推測する。

〈このままでは、王の権威が失われ、王制は衰退の途をたどる……。息子の代はともかく、自分たちの代で王家を衰退させるわけにはいかない。マオイストのような不敬なやからは、たたきつぶしておかなければならない〉と、ギャネンドラは王制の現状と将来をみすえたのだろう。王制に反対する勢力を力で押さえ込む手段が考えられるが、それができるのは「王」だけだった。

〈しかし、弱腰の兄は、マオイストに対抗しようともせず、民衆に迎合するかのように伝統の王制を損壊する方向に動いている。高貴な王の権力を放棄して、卑しい平民たちに政治の主導権をわたそうとしている〉

 傾きかけた王制を立て直すためには、兄に「死んでもらう」必要があったのだろう。

〈自分が王ならば、それができる。民主化の流れに歯止めをかける最後のチャンスだ〉

そして、「たまたま偶然に」王族たちの月例の晩餐会に参加せず、別荘にいて事件の難を逃れたギャネンドラは、国王や皇太子が死んだことにより、その権力をつかむことができた。

 

 5.ギャネンドラの専制政治の終わり

ギャネンドラは、その政治的権力を振り回して、多数の国民に圧政を加え始めた。一度手に入れた権力を手放そうとしないギャネンドラと、世論をバックにした政党勢力と、地方で実権を握るマオイストたち、それぞれが渦を巻くように、ネパールの混乱が続いた。ほぼ内乱状態になった。人々の心が王から離れるのにともない、ギャネンドラは、さらに強権を発動する。人々の怒りを買うようなことをする。ネパールの王が「生き神さま」ではなく、贅沢な暮らしをほしいままにする、単なる「権力指向の俗人」であることが、だれの目にも明らかになってしまう。当然、国民は、「こんな王政など、要らない」ということになる。

これでは、国際社会も黙ってはいない。長年に渡って「共産勢力に対抗する」あるいは「テロとの戦い」を標榜してきたアメリカでさえ、ネパールでは、共産主義者的なにおいを放つマオイストたちを単に王制反対派勢力とだけ位置づけ、ギャネンドラを、民主化を抑えこもうとする独裁者とみなした。これが1960年代なら、ベトナムのように王制側を確実に支援したことだろう。しかし、中国だけは、1960年代のアメリカのように、ネパール政府に武器の供与などして王政を支援し、自国の偉人を勝手に持ち上げてマオイストと名のることに眉をひそめながら、マオイストたちを封じ込める側に立った。(体制に反対する民衆勢力を封じ込めようとする中国の姿勢は本能的なようだ。)

経済的に国際援助が必要なネパールとしては、国際関係を悪化させるわけにはいかない。特に、隣国インドの状況収拾に向けた圧力が大きかった。(ネパールはインドの属国に近い立場にある。インドには王族の親類縁者もいる。) 国内外から、ギャネンドラは民主化を求められながらも、そうとう強く抵抗し、あれこれ画策したものの、結局、事態の収拾に追い込まれる。

2006年4月、民主的選挙を行わざるをえなくなった。選挙では、国民の心は王室から離れていたから、多数を占める反体制派が圧倒的な議席数を得て勝利したのは当然の結果だった。その後は、主権は国民にあると憲法の改正を一気に推し進め、王制を廃止し、共和制とした。

2008年5月、ネパール国民と政府はその実現にこぎつけた。ネパール共和国の成立だ。

 

 6.現代の王室の存在理由

利害得失が絡む政治権力は、ただでさえ諸刃の剣であり、それを振るえば、賞賛と反発のどちらか、あるいは両方を招く。それを単に体制維持のため専制的に使ったとしたら、招くのは反発だけだろう。ギャネンドラ氏は、国民を王制という枠組で支配しようとした、時代錯誤的な人物だったということだろう。あるいは既得権を守ろうとしただけのことかもしれない。

現代の王族(皇族を含む)は政治に口を出さず、「儀礼的な顔出し」を公務とし、保証された「優雅な暮らし」をすることに徹するのが、一番よいのだろう。

 

 

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