被疑者の名前に敬称を付ける                                    岡森利幸   2008/5/12

                                                                    R2-2008/7/14

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞朝刊2008/4/21メディア面

容疑者の呼称、どう報じたか

佐藤直樹・九州工業大大学院教授は、本誌41日付朝刊「新聞時評」で、容疑者という呼称自体が蔑称ではないかと問いかけた。……本誌は、任意で取調べを受けている被疑者については原則として氏名の後に肩書・呼称または敬称を付けるという内規に沿った。

田島泰彦委員(上智大教授)「かつての一方的な『呼び捨て』をやめて人権に配慮し容疑者呼称を付けたのは一つの前進と評価できるし、それなりに定着してきた面もある。」

吉永みち子委員(ノンフィクション作家)「交通事故の加害者に『さん』を付けて読者から批判を受けた例も昨年あったばかりだ。」

メディアは、人の名前にどんな呼称をつければいいかということに関して、常に迷いが付きまとっているようだ。呼称を付けないと、差別的ニュアンスが感じられることに、問題の根本がありそうだ。「呼び捨て」は、日本の文化には、なじまないらしい。

かつてメディアは、逮捕された犯罪容疑者を呼び捨てにしていた。犯罪容疑者に敬称や尊称を付けたら、おかしいことになるから、それが社会的な慣例でもあった。しかし、それは犯罪者として決め付けるようで、まずいという反省が生じた。警察や検察の「思い込み」捜査で無実の人が犯人に仕立て上げられることが、たびたびあったし、呼称一つで、人々の見る目が「犯人扱い」となるからだ。「呼び捨て」では、侮蔑的だろうということで、被疑者の名前に呼称をつけることにしたのだが、名前に「容疑者」を付けるのでは、佐藤直樹教授がいうように、それが蔑称のようでもある。まさに「容疑者」と決め付けているのだ。

最近では、犯罪に関わりがあったのかどうか、はっきりしない人物には、職業上の肩書きをつけるようになってきた。「元社長」などという、首を傾げたくなるような肩書まで呼称に使われている。メディアは名前に何かしらの呼称をつけなければ気がすまなくなっているのだ。肩書をつけるのなら、過去の役職名など使わずに、現在の役職名を付けるべきだろう。現在、無職にならば、「無職」という肩書をつければいいのかもしれないが、そこまで呼称にこだわる必要があるのだろうか。

名前に呼称をつければ、差別的ニュアンスが消えるというのだろうか。逆に呼称をつけることで、差別的ニュアンスが助長されると私には思えるのだ。人の名前にレッテルを貼り付けているようなものだ。呼称によって人の格付けをしているのだ。格付けとは、差別の一種であり、身分制度や不平等社会を基本にしている。あらゆる人を格付けしたがるのは日本の国民性といっていいだろう。名前に呼称をつけることが格差社会の象徴のようだ。そんな呼称は、人の社会的地位を識別するのには都合がいいかもしれない。名前に呼称をつけることは、人を社会的な地位や階級や役職で区分していることになる。人の社会において、憲法などによって人は平等だとはいわれながら、人との関係には、望もうと望むまいと、地位の上下が厳然とあるからだろう。

自分が格上であることをうれしがり、格下であることを嫌うことは、人々の「自然な感情」でもあるから、うっかり呼称を間違えて言うとトラブルの元にもなる。上下関係を気にするような人に呼称を間違えたら、大変だ。格下を表すような呼称はさけて、おだてるような呼称を使えば無難かもしれない。

また、人々の中には、自分が格付けされないと、社会の一員として認められていないという、社会から見放されたような不安があるのかもしれない。

会社などの組織の中においても、上長・同僚・部下に対する呼称の使い分けには、気を使うものだ。いっそのこと、尊称だの蔑称だのを使い分けるより、呼称をなくした方が、平等な、スムーズな関係になれるかもしれないと思っている。呼称を取ることは、敬称も蔑称も付けないのだから、人を中立に扱うことである。呼び捨てられることは、名前に蔑称(『容疑者』や『受刑者』などという呼称)を付けられるより、ましと考えたい。英語では、ごく限られた特別な人の名前に尊称をつけることはあるが、名前にやたらと呼称をつける習慣はない。呼称にこだわらない文化の方が、気が楽だろう。日本では、敬称・尊称の文化が発達しすぎて、名前に呼称をつけないと、最下位の扱いになってしまうのだから、ややこしい。

 

 

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