熱演したテノール歌手 岡森利幸 2008/4/11
R1-2008/4/13
以下は、新聞記事の引用・要約。
毎日新聞夕刊2008/4/10国際面 パバロッティ、口パクだった、最後の「熱唱」 昨年9月に死去したイタリアのテノール歌手ルチアーノ・パバロッティ氏が、最後の公の舞台となった06年のトリノ冬季五輪開会式で「熱唱」したアリア「誰も寝てはならぬ」は事前に録音されたものだったことが分かった。開会式で指揮した指揮者マジエラ氏が著書の中で明らかにした。 同氏によると、パバロッティ氏は開会式の前に体調を崩し、声が出なくなることを恐れて事前に録音。式では口を動かすだけだった。 |
かぎカッコつきの熱唱とは、皮肉な(いやみっぽい)書き方で、熱唱ではなく、実際は「熱演」だったと記者は言いたいのだろう。歌っているふりをしたパバロッティ氏は、会場につめかけた数万人の観客と、その実況をテレビで見ていた何百万人もの視聴者をだましていたことになるというのだろう。それをばらしてしまったマジエラ氏は、(自書の拡販のために?)世界的なテノール、パバロッティ氏の名声をおとしめたことになりやしないか。
しかし、パバロッティ氏は開会式の前に体調を崩していたことで、「開会式の本番でうまく歌えないかもしれない」という恐れを抱いたのだ。国際的なスポーツの祭典で、不出来な歌を歌ってしまっては重大だろう。「自分だけの恥ずかしさ」だけではすまない。晴れの開会式を台無しにしてしまうかもしれなかった。開会式を成功させたいという気持ちの方が強かったのだと私は思う。氏が開会式で熱唱することを依頼された時点では、もちろんうまく歌える自信があったし、光栄なことだと喜んで引き受けたものだろう。だが、直前に歌えなくなるほど体調が悪くなることは予想できなかったのだ。もう引き下がることもできなかった。
開会式を盛り上げるためにも、口パクという方法がベストであると判断したのだ。事前に録音し、本番では自分が「熱演」すればいいのだ。それはプロの歌手としての責任感だろう。失敗の許されない大舞台で、体調の悪い歌手が選択した方法を責めるわけにはいかないだろう。どうせ肉声を聞くことのできるのは、半径20〜30メートル以内の一握りの人だったろうし、ほとんどの人がマイクとスピーカーを通して聞いていただけなのだ。そこに録音の歌唱が流れたとしても、本人の声には違いないから、偽ったということにはならないだろう。(日本でのテレビの歌番組では、口パクが常識だろう。口パクというのは、そもそも、その業界用語だろう。)
開会式で体調が悪いながら、最後に両腕を大きく広げ、(歌い終えたのではなく)演じきったパバロッティ氏は、最後まで立派だったと私は思いたいし、指揮者のマジエラ氏もその偉大さを書き残したかったのだろう。
死んでおわびした小学生