間伐される森林                                                         岡森利幸   2008/2/22

                                                                    R1-2008/4/12

以下は、新聞記事の引用・要約。

毎日新聞夕刊2007/2/21身近なニュース

かながわ森林再生50年植樹、97%が針葉樹、研究者から再考を求める声が上がっている。県の担当者は、森林の所有者が望んでいるためと説明している。

一年前の記事を引用するのは古かったかもしれないが、森林に関しては、私は長年気にかけていている。自然環境保護の観点から、森林はどうあるべきなのかということだ。そんなひとつの疑問に、間伐や枝落としの必要性がある。

間伐や枝落としは、昔から、林業の重要な作業だったが、近年は手抜きをされることも多く、森が荒れていると嘆く人も多くいる。それで、公費で援助しようという機運になっている。それは森林を育てるために必要だということになっているが、本当に森林再生のために効果的であることが科学的に立証されているのかが私には疑問なのだ。それは、多分に、林業に携わる人の言い分を通しただけのことだろうと思っている。

間伐は、商品価値の高い木材の得るためにしてきたことだ。それは商品価値を高めるための手段であって、森林を木材資源として利用することしか考えていない。木が小さいうちは密集して植えて、ある程度育ってくると、競合しあって、それぞれの葉の日当たりも悪くなるから、一つ一つの成長が遅くなる。業者たちは、そこで間引きするように、いくつかの木を選んで切ってしまう。枝振りの悪いものなどは真っ先に切る。商品価値のありそうな木を残すわけだ。間伐することによって一本一本の木は大きく伸びるかも知れない。しかし、森全体としてはどうか。密集して育てた方が、森としての生産性が高いのではないか。

間伐の程度は下草が生えるぐらいに地面に日が差すぐらいがいいのだそうだ。下草といっても、単に雑草が生えるだけだ。業者たちは、雑草の処理にまた手間をかけたがる……。

間伐材などは商品価値がないとして、今まで捨てられていたという。ただし、近頃は間伐材を利用する話を時々耳にする。間伐材などは市場に出回らないから、一般の人が利用することはできない。一部の特権者が低料金で(おそらくただ同然で)利用しているのだろう。不公平な感じがぬぐえない。(間伐材が市場に出ると、木材相場がますます下がるから、基本的には放出されない。)

枝打ちも、節を少なくして、木材としての商品価値を高めるためのものだ。しかし、植物自身は枝を落とされたのでは迷惑だろう、と私は思うのだ。人間の都合で、枝を落としているだけだ。枝を落とされた木は、ひょろひょろと上に長く伸びるのだろう。

最近注目されている森としての機能は、水を涵養し、二酸化炭素を吸収する能力だ。間伐によってそれらの効果が高まるとは思えない。森に住む動物にとっても、それは同じだろう。まばらな木より、多くの木がある方が住みやすいだろう。まばらになった森林で、水を保持する能力が高まるとはとても思えない。それらを実証する科学的なデータを見てみたい。

間伐という手間隙かける作業は、あくまでも林業のためであって、それが公共的に行うべきことだとは私には思えない。一部の林業に携わる人を援助するだけのことだ。手間隙かけても、今の日本の林業では、国際競合力がまったくないから、木材が商品として売れる保証はない。近年、人工林がほったらかしにされているのは、人手不足というよりも、ほとんど採算が取れないことが一番の要因だ。今の行政のやり方では、自然保護にかこつけて、一部の業者のために予算をつぎ込むだけのことになるだろう。

つまり、商品価値を失って放置されているような森林にわざわざ金をかけて、昔ながらのやり方で維持しようとするのは余計なことだろう。森林を単に「木材」としてみるべきではなく、「環境」としてみるべきだ。環境を良くするために森をもっと自然に育てて行く方法を考えたい。少なくとも、間伐は不要だろう。従来商品価値が高いとされていた針葉樹林(花粉を撒き散らす元凶にもなっている)などよりも、その土地に適した種類の木を育てていくべきだろう。土地に適した種類の木とは、結局は、雑木林ということになる。神奈川県で森林再生のために植林するなら、山の標高にもよるが、雑木林で見かけるような広葉樹を選ぶべきだろう。

 

税金を使って「不自然な」伐採を行っていることに、うんざりさせられるもうひとつの例として、公園の木々の手入れがある。例えば、私の近所の公園や緑地では、ところどころ、木々が間伐され、スカスカの状態にされている。多くの切り株が残された風景は、殺伐としたものだ。そして夏には、そんなところは雑草が生い茂るだけだ。木々がやっと大きくなったと思うと、木々の切り倒し作業が始まるようだ。切り倒す作業や除草作業(複数の人が手で草むしりしている姿も見かける)をしているその多くは、市に雇われた高齢者たちだ。市は彼らの雇用対策を兼ねて、効率の悪い公共事業を行っているのだ。おそらく市は、「日当たりが悪くなる」、「うっとうしい」、「虫が出てくる」などという一部の市民の声を受けて、公園の管理上必要と考えているのだろう。木がうっそうと茂ってくると、防犯やら防火のためによくないということも口実にしているのだろう。

しかし、それらには反論もある。木が切り倒されてから文句を言っても遅いのだが……。バラマキ型の公共事業は、特定の者や団体を利するだけで、税の無駄遣いという一面がある。日当たりが悪くなるのは、木陰が得られることであり、夏の暑い盛りは、自然の空冷設備として機能するから、周辺に住む人には、冷房費の節約になるだろう。

虫に関しても、そんなに虫を毛嫌いする必要はなく、虫が好きな人もいるのだ。特に子どもたちは虫が大好きなのだ。虫が出てくれば、鳥が来てついばむだろうし、カやハエが出てくるとしたら、公園の木々とは別なところに原因があるはずだ。そもそも自然の木は虫にやられるほど、ひ弱ではない。農薬が必要になるような種類の樹木は公園などに植えるべきではない。

 

 

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