救助する側の危険                                                  岡森利幸   2007.3.15

                                                                                                                       R1-2007.3.31

以下は、新聞記事の引用・要約。

読売新聞朝刊2007/3/14社会面

13日午前6時ごろ、愛媛県宇和島市の大内漁港で、体長約15メートルのマッコウクジラとみられるクジラが水深3メートルの浅瀬に迷い込んでいるのを漁師が発見した。

クジラを救出するため、地元漁協の小型船(全長6.5メートル)などが出港し、午後3時20分ごろ、漁師らがクジラにロープを巻きつけてタグボートで引こうとしたところ、クジラが暴れて小型船に接触、乗っていた漁師ら3人が海に投げ出された。小型船は転覆した。その1人が海中に沈み、約2時間後に発見されたが、死亡した。

海に投げ出された牧野正典さん「気付いたら海の中だった。クジラに襲われると思い必死に海面に上がった」

当初、漁師らが(1メートルほどの長さの2本のパイプを打ち鳴らし)沖に誘導しようとしたが、クジラが動かず、ロープで引くことにした。その後クジラは衰弱していたが、午後6時30分ごろ沖に戻っていった。

テレビのニュースでも、その様子が放映されていた。クジラは、ロープを巻きつけた作業員3人が乗った小型船に対し、体当たりを2、3度くらわせた。最初の一撃でそのボートが突き上げられて、2人が頭から海中に落とされた。そこで転落を免れたもう一人も、クジラの次の体当たりでボートの転覆とともに海に投げ出された。クジラは敵意をあらわにしていた。3人は防寒着に身を包み、長靴をはいていたから、泳ぐこともできず、海面に顔を出すのが精一杯だったようだ。1人はそれもできなかった。

クジラの力を見くびったようだ。クジラにロープをかけて引こうとしたのは、危険だった。無謀とも言えるかもしれない。体長約15メートルの生きているクジラに、3人は小型ボートに乗ってロープを巻きつける作業をしたのだ。クジラは衰弱していながら、ロープをかけられたので、身の危険を感じて持てる力をふりしぼってボートを襲ったのだろう。コミュニケーションの通じない相手からロープをかけられては、だれでも「自分を救出するもの」とは思えないだろう。ロープをかけられる前には、パイプを打ち鳴らす音により『いやがらせ』を受けていたのだから、音に敏感なクジラはいらだっていたに違いない。それに、クジラは浅瀬で休息をとっていたのかも知れず、沖へ引きもどすなどは、クジラにとって余計なお世話かもしれなかった。クジラの気持がわからずに作業したようだ。

なによりも、ライフジャケット(救命胴衣)を着けずに作業したことが、死亡事故の原因と指摘されている。私もそう思う。あえて言うと、漁師が海で溺れるのは不名誉なことだろう。緊急を要するものでもなかったはずだから、もっと用意周到にすべきだったろう。クジラを救出しようとしたことに対しては、ほめたいのだが……。

 

溺れている人を見て、特にそれが近親者である場合、無我夢中で救助しようとして、自分が溺れてしまう事故は枚挙にいとまがないし、駅のホームから落ちた人を助けようとして電車にひかれる事故もたびたび起きている。冬山で遭難した者を助けようとして、雪崩に巻き込まれ、2次遭難に遭ってしまうこともある。そんな場合、自分にせまりくる危険を忘れてしまうのは仕方がないことかもしれない。

救助する側が救助される側に回ってしまうことが多いことに、私はやりきれなさを感じている。死者に対して大変失礼ながら、ミイラ取りがミイラになるというように揶揄する気持ちにもなるのだ。助けようとした行為が周囲の人にどんなに賞賛されようとも(例えば、二階級特進の栄誉)、救助失敗は本人にとって不本意なことだろう。失敗してほめられたのでは、こそばゆいことだろう。

 

 

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