良寛の人間像の「真髄」の再考

T 序  論

 「良寛」様は今は「絶賛」言ってもよいほどもてはやされ、各地に……良寛会とか「全国良寛会」などがあり、良寛研究は既に相当なされている。
しかし、見るところ所謂「ファンクラブ」であって「実際ほんとにそうなのか」という事を検証して見るというのが今回の再考である。
 一方、書の世界に於いても良寛風、またはそれを真似た書風は、至る所に見られるものである。しかし、「書は人なり」といわれる。従い、その人となりを検証してみなければという趣旨もある。
 良寛の書は、当時【江戸時代中期】において「お家流」という尊円法親王の「梁園客法帖」から発した書風に対して、懐素「自叙帖」や王羲之を学んだといわれている。
 種々の業績から見ても庶民階級【?】の人物としては傑出したものであろう。

 さて、ここで「良寛」様への「賛辞」があるので書き並べてみたい。
 但し、内容は「上州良寛会々長・市川忠夫」先生の講演パフレットによる。
 ●良寛から学ぶもの【自己への挑戦の人・良寛】
  @長い生涯で、どの一部を取っても、安心して子供に話してやれるのは歴史上の人物で良寛のみ。
 A抗争に明け暮れる現代あって、特に見直さなければならないのは、良寛の自他を区別しない愛情(人間愛)
 B禅修行により、自己を律し自己をつくった。弱い自分を強くした。
 C心と言葉と行動が一致していた。(自己に偽りがない)
 D清貧に徹した生活(無欲)
 E影でなく根源を探る目を養う。本物を見抜く眼を持っていた。→自然
 F自己への厳しさ。自戒に徹した(人に求めない)
 G子供のような純真さ(天真爛漫)
 H芸術の本質を示した(和歌・漢詩・書)
 I教育者・親のあり方を示している。(理性的な厳しさ、真に静かに見守る心)
 ●今、なぜ良寛か−その信と愛
 @良寛の意外性について
 Aなぜ、立派な人物といえるのか
 Bなぜ、子供が好きで「いつも子供と遊んでいたのか」
 Cなぜ、名主、神職を捨てて出家したのか
 Dなぜ、物事をも差別せず、すべて全ての物に思いやりの心を持って接する事が出来たのか
 Eなぜ、心の中は厳しかったのに、表面は仏のように穏やかで、天真爛漫だったのか。
 Fなぜ、性格的に弱く内気で、人を恐れ、人の言葉を信じた人間が筋金入りの人物になり得たのか。
 Gなぜ、書、漢詩〔424編〕、和歌〔1398首〕等が超一流と言われるのか。
 Hなぜ、人々は良寛をを慕い、良寛によって救われたのか。それはどういう生き方から
生まれたのか。

 後半は本の目次の様であるか、いずれも否定的見解ではなく賛辞である。
 「過去の事柄について現在の『価値観』で断罪してはならない。」と言うのが「歴史」や過去の出来事に対する考え方である。又「逆に極端な評価も控えるべきである。」ということを念頭に置いて考察する。



U良寛の生い立ち

@)出 生
  良寛は、宝暦8年(1758年)、今から244年前に越後、出雲崎(いずもざき)(現在の新潟県三島郡出雲崎町)名主兼神主(石井神社の神官)、橘屋山本以南(通称・伊蔵)、母・秀子の長男として生まれた。【実際の生誕は明らかでなく没年から推定されてる。】
兄弟は弟3人、妹3人の7人であった。又幼名は山本栄蔵といい後に元服して山本新左衛門文孝(泰孝)と名乗り、字を曲〔まがり〕と称した。
 17世紀半ばに海運は「西回り航路」と「東回り航路」が開かれ大阪と江戸を中心に、全国の沿岸が海路で結ばれた。この良寛の生家・橘屋の生業は海上の通行権を持つ回船問屋であった。又、代々の名主というが、一般に知られている名主とは違い「所謂・町名主」である。 名主(町・名主)は、@町内地域の安全・保全、A冥加金・運上金等の徴収・納入、B苦情の調停、Cその他種々雑多な業務があり、今で言えば町長、村長の様なものである。従って、地域の有力な豪商がその地方の権益を守るため当然名主となった。
 但し、当時の出雲崎は天領(直轄領)であり、佐渡金山からの金を江戸まで運ぶための重要港であった。従い名主は、代官と折衝、金の荷揚げ等の管理、橘屋の場合は「海の守り神」の神社の神主も務めた。
 元に戻るが、良寛の祖父山本新左衛門は一子・新之助が亡くなったため佐渡・相川町問屋 山本庄兵衛の長女・秀子(一説には、おのぶ)を養女にむかえた。ここに父三島郡与板町、名主・新木与五右衛門の三男・泰雄を17歳で入婿とした。名主となって山本次郎左右衛門(又は、新之助)。隠居して以南と号した。

A)名 主・良寛の生まれた時代

 出雲崎港は堆積物のため年々遠浅となり、港としての有用性が薄れて来るにつれ、隣の尼瀬港が大型船の入港先となってきた。衰退してゆく出雲崎港に対し尼瀬は隆盛となる。尼瀬の名主・京屋野口寛蔵家、その他、敦賀屋鳥井直右衛門家との争い。金紋高札問題、などで尼瀬の京屋に敗訴する事などが続き(栄蔵13歳)、その他明和2年、(栄蔵8歳)橘屋の船が沈んで大きな損失を被る事件などがあって橘屋は衰退の一途をたどる。
 そのためか、良寛の父・伊蔵は趣味の俳諧【有名】や勤王の志士【50年以上早いと思うが】にはしり家を空けがちになったと言われる。
 良寛(栄蔵)は、魯直(ろちょく)で、この頃から寡言、無欲であったという。従い、世間や世事の事には疎く、人に対しても正しく行儀することも出来なかった人だと伝えられている。
  又、栄蔵は読書にふけったという事実が注目されられる。そのため祭りに出かける様言われてもいつも家に籠もって読書をしていたといわれる。【性格占いだと・タイプ5になるか、笑い】
  栄蔵が11歳の時、地蔵堂(現在の分水町)の狭川塾の儒者・大森子陽の門に通わせ、和漢の学問を修めさせた。【大森子陽の師・釈大舟〈禅僧〉】
 そして、15歳の時栄蔵は元服(文孝)して、名主見習役につく。
 しかし、人々は名主の「昼行灯・ひるあんどん」とあだ名され、失敗に失敗を重ねて「無能」呼ばわりされた。
 実際文孝は、死刑の立会躊躇、天領であるため中央〈江戸〉からの代官と漁民の調停の不首尾〈出雲崎の代官と漁師と争いの時、文孝(良寛)は、漁師の悪口を正直にそのまま代官に伝え、代官の言う悪口をまたそのまま漁師に返した。…と言う逸話。〉佐渡奉行の駕籠の柄を切らせた逸話などいろいろ。
  15歳(数え16歳)と言う年齢は、江戸中期の平均余命40〜50歳という時代にあっては現代の+12〜3歳の所ではないだろうか。とすると現代で見れば27〜28歳。
 すると結構話が見えてくる様な気がするではないか。
 識者は、文孝(良寛)が15歳の時老中首座となった(悪政の)田沼意次の時代背景が大きく関与していたせいだとしている。
  田沼時代は、幕府財政窮乏のため商人たちの株仲間を公認し、運上金を納めさせ幕府収入の増加につとめた。この田沼時代はつとに「賄賂政治」として有名である。
 しかし、江戸時代というのは、今で言う地方分権、軽軍備そして小さな政府であった。
 江戸時代の年貢率は「五公五民」「六公四民」という言葉があり収穫高の5〜6割が年貢と言われていた。しかし、実際は17世紀初頭の検地の時に比べ収穫高ははるかに超え、全体として3割、地域によっては1.5割程度であったという。又不作の「目こぼし」なども有ったため、税としてはかなり安かったと言われる。
 産業の発達に伴う社会変動その他の要因も含めてであるが税収は慢性的に不足していたのである。田沼政治は拡大均衡を狙ったと言う説があり、田沼以後に倹約を国是する「寛政の改革」は縮小均衡を狙っていることになる。
 さて、田沼時代の「賄賂政治」というが、江戸時代は初めから一貫して「賄賂政治」である。言い方が悪ければ「付け届け」政治である。享保の改革の徳川吉宗時代、吉宗に反発して老中を辞した大名が老中を辞した途端に「財政に窮乏して」再度登用を願い出たり、又町奉行の「与力」は堂々と奉行所で「付け届け」を受け取っていたのである。但し、受け取ったからと言って、「目こぼし」をすると言う事もなかった。与力などはその俸給で仕事が出来なかったからである。
 当然のこと、幕府内で役職に有り付くためにはそれなりの「金銭・付け届け」が必要で、田沼時代はこれが甚だしかったと言うことである。
 又、「付け届け」さえしっかりしていれば、ある程度の問題は解決するという分かりやすい時代であったかも知れない。
 従い、この頃出雲崎・代官と結んでいた尼瀬・京屋の勢力によって橘屋は危うい立場にいたことは事実である。
注1
  佐渡の金山の渡海港・北前船の寄港地として栄えた出雲崎の廻船問屋橘屋は、幕府の金紋高札という(重要な)仕事を預かっていました。金紋高札(きんもんこうさつ)とは、今のお知らせ用「立て札」のようなものに、模範となるような事を書き、人通りが多い所に高く掲げておく札所であるといわれる。





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