D'Artagnan物語・三銃士U

フロンドの乱最終章U(1652〜1653)
フロンドの乱最終章U(1652〜1653)
大コンデと歴史に名を残す名将コンデ公に対して、時の運はことごとくテュレンヌ国王軍に傾きつつある。
テュレンヌ国王軍はパリ北の近郊に陣を敷き、一方コンデ公軍はパリ西方サンクルーに陣を敷いていた。
膠着状態に置かれたコンデ公軍は、地の利得又防備を固めるためにパリの南シャラントンに移動を開始した。
しかし、コンデ公軍は宿敵であるスペイン軍(未だ戦争状態にあった)と反乱貴族の混成軍であったためパリ市内の通行が許されず、城壁の北側を廻ることになった。
これは、テュレンヌ元帥軍に対して横腹を見せる失策で、7月2日この動きを知ったテュレンヌは空(す)かさずコンデ公軍の後衛に攻撃をかけたのである。
この奇襲攻撃に対してコンデ公は仕方なく反転し、両軍はパリのサン・タントワーヌ門の外で激戦を繰り返すことになる。
「ほぼ午前中を通して、断続的な殺し合いが続けられた。」というのは7月の猛暑のために、兵士は戦いを中止しなければならなかったからである。
…ギー・ブルトン「フランスの歴史を作った女たち・第5巻・第3章」
名将に率いられた強力な攻撃軍というのは、その戦いの勝敗を左右する。当然のこととしてコンデ公軍は、城壁間際まで追いつめられ全滅かと思われた。
ところが、この際(きわ)どい時にバスティーユBastille要塞の大砲が国王軍に対して砲火を加えたのである。
これは、オレルアン(d`Orle`ans,Duchesse de)公女
(グランド・マドモアゼル/アンヌ=マリー・ド・モンパンシェ・当時25歳/Montpensier,Anne-Marie-Louise d`Orle`ans,Duchesse de)
の助力によってパリ市民軍がコンデ公軍に協力することを決したことを意味する。
この間隙を狙ってコンデ公軍は態勢を立て直し反撃に転じ、開いた城門からパリ市内へ逃れることが出来た。
オレルアン公女が突然コンデ公に身方して国王軍に砲門を開かせたのは、公女のイライラや鬱憤のはけ口だったと言われている。…前出 …ギー・ブルトン「フランスの歴史を作った女たち」ピェール・メスナール「回想録」
………普段は大人しくて「お嬢様然」としているオレルアン公女・モンパンシェ公女なのであるが、時として自己顕示欲を発散する癖があった。
尚、ルイ13世の弟オレルアン公ガストンを父に持ち、モンパンシェ(Montpensier)家唯一の相続人だった母が出産の時に死亡したためにフランスでも有数(フランス一と言われる)な財産を持ったモンパンシェ家の相続人となった。又、ルイ14世の妻になることを切望していた。
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ここで国王軍は、予定が狂ってしまった。パリ入城のためにサンドニまで来ていたルイ14世は、ポントワースに宮廷を移さざるおえなかった。
8月コンデ公は、再びフランスに侵入したロレーヌ公と合流した。
ここで断っておくとロレーヌ公は「ラインクネヒト」である。「ラインクネヒト」……分かりやすく言えば「傭兵」である。只、ロレーヌ公領はフランスに侵入されており領地が回復できない恨みは有ったろうと思う。
又、傭兵は当然のことながら「金」で戦争を請け負うのであるが、通過する村々の略奪をも仕事にしていた。
一方パリに入城した殺気だったコンデ公軍とパリ市民とのトラブルが相次ぎ、その上過去の特権を復活しようとした事がコンデ公から民心の離れる原因となった。又約束としていた「平和」もコンデ公は中々果たせないでいた。即ち政治的にコンデ公は行き詰まってしまったのである。
それは、傭兵ロレーヌ公軍を加えてテュレンヌ国王軍の倍の勢力になったものの決定的な戦果を上げることが出来なかったからでもある。
いつも、連合軍というのは難しいものである。
ナポレオン戦争のころのアウステルリッツの戦い(Schlacht von Austerlitz 1805年12月2日)でナポレオン軍7万3000人がオーストリア・ロシア連合軍8万7000人と戦い。
オーストリア・ロシア連合軍は3万以上の死傷者を出し敗走した。早く言えば全滅と言ったところである。

さて、普通戦争では首都を制圧すればほぼ戦争は終わる。即ちここでも国王軍とコンデ公との間でパリ争奪戦が始まるのである。
8月マザラン枢機卿は、国王が高等法院とブルジョワ、パリ市民の受けがよいように亡命する。
このときにはフランス宮廷はサンジェルマンに移っていたが、9月になると無政府状態のパリにほとほと嫌気がさしたパリ市民からルイ14世に国王還御(かんぎょ)の要請が出された。聖職者の代表やギルドの代表などからである。
1652年10月21日ルイ14世は、サン・トレノ門からパリに入城した。
翌日の親臨法廷(親裁座・Lit de Justice)で高等法院に対して、今後「国家と財政の問題に干渉することを禁じる」と宣言した。
一方、コンデ公軍は危険を感じて国王のパリ入城の直前にパリを脱出した。
しかし、これでも戦いは終わらない。テュレンヌ軍はコンデ公軍を徹底的に叩きのめそうと考えていたのである。
11月下旬、コンデ公軍は占領地域であったエーヌ河畔で「当時の常識」どおり冬ごもり(冬営)に入ろうとしていた。
ところがこのコンデ公・ロレーヌ公連合軍にテュレンヌ軍が奇襲をかけ、撃破したのである。
結果コンデ公はスペイン領ネーデルランドのペイパへ亡命せざるおえなくなった。
時に、コンデ公31歳、マザラン枢機卿50歳。
そしてこの後、マザラン枢機卿の命令でエーヌ河畔の都市の残党掃討作戦が始まる。
1653年1月ヴェルヴァンが陥落して掃討戦は終わり、1653年2月3日テュレンヌとマザランが共にパリに帰還した。テュレンヌ(子爵・元帥41歳)
……以前にも述べたとおり当時・近代以前は、「冬には戦争をしない」というのが常識だった。
即ち、道路はぬかるんで移動は困難であり、馬に食べさせる「まぐさ」の調達が絶望的だったからである。
戦争の季節は春から秋であった。……どちらかと言えば小貴族出身の実力でのし上がった歴戦のテュレンヌ元帥(子爵)に対して、大貴族・王族である常識的な名将−コンデ公はやはり勝手が違ったということであろうか。
パリと並んで反乱の中心地であったボルドーBordeauxでは、コンデ公が亡命した後も「楡(にれ)の木同盟」と呼ばれる党派が市政を握って抵抗を続けていた。
1653年7月ボルドーが陥落し5年に及ぶ「フロンドの乱」が終決した。


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