[ 最終章 ありがとう ]
彼女が無事退院して約二ヵ月後の12月23日、早朝。
前夜降っていた雨は上がり、道路はやや乾き始めていた。
冬独特の凛とした空気を感じながら、俺は一人、
港区役所の前に居た。

手には、一枚の書類が入った封筒。
書類の名前は婚姻届。
今日から俺と彼女は夫婦となる。

退院してしばらくは流動食しか摂取できず、
市販のペットボトル入りジュースも、一日かけてさえ
飲みきれなかった彼女。

少しずつ時間をかけ、今では量こそ術前には及ばないものの、
生もの以外はほとんどのものを食べられるようになった。

きっと今ごろは、ずっと楽しみにしていた披露宴の料理に
思いを馳せ、念入りなヘアメイクを施されていることだろう。

区役所に入館し、眠そうに目をこすりながら出てきた職員に
書類を手渡す。祝福の言葉に礼を云い、ホテルに戻った。

ばたばたと準備をし、会場となるレストランへ向かう。
当然のことながら彼女は既に到着していて、メイクの最中だった。

俺も控え室で着替えてエントランスに出て行き、そして
全ての準備を整えた彼女、いや、妻と二人の写真を撮った。

食が細くなったことにより大幅に修正をかけることを
余儀なくされ、なんとか当日に間に合ったフルオーダーの
ウエディングドレスを着て、微笑む妻。

衝撃の事実を告知されたあの日から、たった一度として
己の運命に呪詛を吐く事がなかった彼女には、勝利者の
称号が相応しい気がした。

アメイジング・グレイスのアカペラに迎えられ、レストランの
地下にしつらえられた祭壇の前で永遠を誓う。
皆の拍手に送られ退場し、しばしのち、披露宴が始まった。

普段の俺たちには敷居の高いレストランの料理はすべて美味しく、
参列してくれた人たちには、むしろ俺たちの式よりも料理の
ことを記憶しておいて欲しい、と半ば冗談で半ば本気で云っていた
俺たちの望みは、充分に叶えられたといってよかっただろう。

厳選した友人のスピーチは目論見どおりに受け、しばしば
爆笑を巻き起こした。

テーブルをまわり、皆と言葉を交わす。

楽しかった。

そして嬉しかった。


すべてが間に合ったことが。

今日という日を、こうして迎えられたことが。

何より、彼女が今そばにいるということが。


いろんな温情が、心配りが、優しさが、俺たちを支えてくれた。
だからこうしてふたり、立っていることができる。
参列してくれた人たち、あなた方のたった一人でさえ
居なかったら今ここに俺たちは居ないでしょう。

宴を締めるスピーチでそう云った。
そして、陳腐な言葉ですが本当にありがとうございますと
付け加えて、万感の想いを胸に、深深と頭を下げた。

参列してくれた人々が退場し、レストランの女性オーナーと
担当の女性に厚く礼を述べた。彼女の事情を知り、こちらの
わがままをすべて飲んでくれたオーナーは、「よかったわね」
と声を詰まらせ、担当の女性も泣いていた。

二次会の会場へ向かうため、タクシーに乗り込んだ。

ずっと手を振る二人の姿が、リアウインドウに小さくなる。

その二人の背後のビルの向こう。




あの、青い空があった。

                         (了)




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