国鉄(インチキ)車両図鑑-特別職用車(全2頁)1/2
形式スヤ59 1~2




『-X線の発見者は17世紀のロシアの農民、イワノフである。ある日彼は女房に「お前の事は何でもお見通しだ、このスベタめ!」と言った。後にドイツのレンツゲンがその為の機械を作った。(スターリン・ジョーク集より抜粋)』

国鉄は、その膨大な職員の健康管理に大いに力を注いで来た。細分化された職場、過酷な労働条件、不規則な就業時間、どれ一つとっても困難な条件が付加される。肺病は死病と言われた時代、特にレントゲン検査は重要と見做され、その為に旧式の客車から改造した検査車両(保健車)を配備してまで、職員の健康管理に気を配ったのである。

以前は良く、「国鉄は田舎のエリート」と言われたものである。田舎で採れた人間は農家を継ぐしか選択肢が無かった時代、国鉄に入れた者はエリートと見做された。理由は多々あるが、その内の一つは、こうした福利厚生が充実していた事もある。 戦後かなり経っても、年に一度医者にかかってレントゲン検査をする人間は、非常に少なかったのである。

国鉄の保健車は、北海道に配置された特別職用車改造のスヤ32が有名だが、今一つ、本州の僻遠地向けに改造された形式が存在する。

それが、本稿で触れるスヤ59である。



スヤ59は、32系のサブ形式である50番台を名乗っているが、これは改造元形式スロネフ58に由来している。


スロネフ58 1~16



接収解除されたマロネ38、マロネフ37の台車・台枠を再利用の上、軽量客車と同等の車体を乗せた車両で、全車昭和31年の改造である。10系並みの車体であるのに32系を名乗ってるのは、改造両数が少なく、今後量産する予定が無かった為と思われる。 昭和31年と言う、ナハネ10形式と同時期にこのような改造が成されたのは、一つには後に出現する10系優等寝台車の試験と言う意味合いがあったが、他方、登場以来好評であったマイネ40の増備と言う側面があった事も否めない。

スロネフ58は東海道線の夜の看板列車、「銀河」「月光」の大阪方に連結され、長い間異彩を放っていた。

全室エアコン付個室(2等寝台A室)であり、各室2名、6室で定員12名と言う豪華客車であった。殊に上り方6号室は見ての通りセミスイートとなっていて、登場当時から入手困難となっていた。

ベッド幅は90センチと当時としては破格に広く、サイドテーブルもゆったりしたサイズであった。オレンジ色の間接照明が薄暗く天井を照らし、数個の壁灯が明るさを補完していた。6号室に限っては、サイドテーブルの下に冷蔵庫が備えてあり、タンサン水と氷が入っていた。勿論数種類の小瓶の洋酒はテーブルの上に置かれている。

昭和33年に訪日したガイヤール仏首相は京都への移動において6号室を利用したが、清楚な中に豪華さを漂わせた車室の造りに感銘を 受けたもののようで、帰国後「日本の公共の場における贅」と言う内容で演説をしたと記録にある。



昭和40年11月ダイヤ改正で「銀河」「月光」の運用から外れ、予備車となった11~14、16を除いて全て職用車に 改造されたが、その中で保健車へ改造された車両は次の2両であった。

スロネフ581 → スヤ591

スロネフ582 → スヤ592



スヤ59 1~2



一部の窓を埋め、中央付近に大きな引き戸を設けている。これは大きくて重いレントゲンの器械の保守、点検の際に用いるもので、被験者の出入りには使用されない。旧5号室はこの中央デッキと消耗品ロッカーの設置に伴い撤去された。

他に外観上大きな違いは無いが、車内は大改造されている。

左から、旧便所、洗面所は撤去され、被験者の待合室として73系電車からの派生品のロングシートを設置している。

被験者は隣に連結されたスヤ59の相棒、更衣車オヤ53で服を脱ぎ、検診衣に着替えて待合室で順番を待つのである。

次いで旧1号室は予備問診室になっており、医師の診察を受けた被験者は内廊下を通って旧3・4号室を改装したレントゲン撮影室に進む。

旧2号室はレントゲン撮影の機器室兼暗室となっており、通常ブラインドは降ろされその上黒地のカーテンが引かれている。撮影が済むと被験者はレントゲン器の横を通って中央デッキに進み、側廊下からオヤ53に戻る。

旧6号室は、医師、技師の控室になっている。基本的なレイアウトは変化ないが、ベッドは2段式になり、定員は4である。

保健車の運用は、時に半月以上にも及ぶ事があり、少しでも良好な居住空間を提供する為にこのような配置になっているのである。



保健車としてのスヤ59の活躍は昭和55年まで続いた。その頃には地方でも立派なレントゲン機器を備える病院が増え、わざわざ臨時列車を組成してまでレントゲン巡業をする必要が無くなった為である。





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