河原の移動…




1954年盛夏、日盛りもようよう衰え、早朝から河原に鳴り響いていた。 砂利積み込みの轟音も聞かれなくなった。KATOのGLに牽かれた積車が相次いで積換え施設へ向かう中、ひときわゆっくりと事務所前に向かって来る列車がある。泥色に迷彩されたようなホイットコムが大柄な客車のような車両を牽いて、注意深く轍を辿る。
目を事務所前に移すと、そこには先程から近所の農民が屯して話し合ったり笑ったりしている。一人が言う。
「お、来た来た、今日はちっとんべぇ遅いじゃねぇか」
「余程貯め込んで来たと見えるなぁ、左に傾いてるぜ」
「あれぁひっくり返ったら大事だな」
「一昨年ひっくり返ったぞ、俺ぁ見た」
「ホントけぇ徳さん、俺ぁ知らなかった、どうなったよ」
「あの辺の曲がり鼻で倒れただけんど、だから見てみない、あの辺の雑草が良く育ってる事」



また一同大爆笑である。

件の列車が停まると、彼らは持参の肥樋に貴重な有機肥料を汲み入れる。やがて「積荷」の積換えが終わると肩に担いだりリヤカーに積んで家路を辿るのだ。

この地区を担当する重田組が、砂利採取の作業員の福利厚生の一環として用意したのが、この「移動便所車・ベ1」である。トロッコの上に簡単な台枠を組み付け、急造の車体を被せただけのものだ。その目的は作業員の福利厚生よりも寧ろ騒音や粉塵で迷惑を掛けている沿線農家へのサービスの意味の方が大きかったのであろう。化学肥料が出現してもその価格の高さから中々普及しなかった時代の「河原の一コマ」である。