国鉄(インチキ)車両図鑑-1(その1)
形式C11 175(流線)




昭和10年代初期に世界を風靡した流線形ブームは日本にも波及し、C53、C55、EF55、モハ52などの名車を輩出した。
その影に隠れて目立たないが、C11形式にも一両だけ流線形改造を受けたものがあった。


昭和15年に東京オリンピックの開催が予定され、更に世紀の祭典、紀元2600年の祝祭行事が日本全土で繰り広げられる事になっていた。時の鉄道省は国威発揚の見地から鉄道車両の近代化を図るプロジェクトを発足させた。
その成果の一つが省線電車の「オリンピック塗装」であり、今一つは流麗な快速列車を大都市近郊に走らせる、所謂「2600年記念快速」計画であった。当時は大都市近辺と言えども電化区間は少なく、近郊区間の区間列車はタンク機関車が短編成の列車を牽引する運転形態が採られている。「2600年」記念快速列車として近郊区間を走らせれば、それだけでも国威発揚の一助となるに違いなく、C11に流線形カバーを被せ、客車は当時最新型のオハ35系をスマートに改造した専用列車を用意して試験する事とし、昭和13年始めから鷹取工場で施工が開始された。

C11 175(流改)



いずれも広窓車で、加工に及んではシル・ヘッダーの撤去、張り上げ屋根化、床下機器を覆う流線カバーの装着、ドアの軽合金化等が施され、更に塗装は「オリンピック塗装」に変更された。その結果到底オハ35系とは見えない程姿が変わり、塗装と相俟って外国の客車のようだと言う論評が多く聞かれた。

C11の流線カバーのデザインは当然鉄道省設計陣が当たったが、その姿はC53ともC55とも違う独特の形態をしていた。同時期米国では著名なデザイナー、ロウィーの手になる流線形蒸機が多数活躍を開始しており、それに多大な影響を受けたのではないかと言う批判めいた意見が出た事もあった。
後に設計に当たった彫越技師の証言によれば、満鉄ダブサの影響があった事を率直に認めている。

同列車は昭和14年6月から8月まで、常磐線上野-取手間で試運転を繰り返し、当時のカメラ雑誌や鉄道専門誌の紙面を賑わせ た。予定通りであれば昭和15年正月から関西本線・参宮線の名古屋-鳥羽間や常磐線上野-取手間等で快速列車に用いられる筈であった。
所が昭和14年9月1日、ドイツはポーランドへ侵攻を開始、同時に英仏がドイツに対し宣戦布告した事から、日本を覆っていた「祝祭気分」に冷水を浴びせ掛ける結果となった。東京オリンピックは中止。日米交渉も次第に行き詰り、線路上には次第に「戦時設計車」が幅を利かせ始める事になって行く。

当然「2600年快速」計画は中止となり、C11はすぐさま元の形態に戻され、客車は「エアロパーツ」を外した後、一般の客車として使用された。
話題性が高かったせいもあり、C11流線は当時のファンに大人気であったようで、昭和16年春頃、大阪の朝緋屋模型店から5センチゲージの完成品模型が、同年秋には東京のサワイモデルからOゲージのバラキッ トが発売されている。因みにサワイのC11は開戦直前の一時期、完成品としてアメリカへ輸出されていた形跡があり、戦後のMRM誌上のオークション欄で散見された事は有名である(出典:MTS1948年12月号ミキスト欄、山坂喜陽氏)。
2003年にはマイクロエックス・成井からNゲージ「幻の2600年快速列車セット」が発売される予定である。

マイクロエックス「2600年快速セット(12,800円、特製木箱入13,800円、2003年6月発売)」
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その2・昭和14年鉄道省発行「2600年記念快速列車パンフレット」
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