国鉄(インチキ)車両図鑑-10
国鉄における関節機関車 形式19700・19750・H50
全2ページ
鉄道統合前の日本鉄道が明治36年にドイツ・マッファイ社から購入した軸配置B-Bの小さなタンク機関車4500型をもって日本のマレー式機関車の嚆矢とする。その後箱根越や関山越に活躍した9750等のマレーテンダーの一群は、国産制式機関車普及前の輸送隘路における輸送力の向上に多大な成果を遺した。
日露戦争の勝利とそれに続く第一次世界大戦中の未曾有の好景気に後押しされるように鉄道の輸送量は大幅な伸びを示し、それをこなす為もあって鉄道院(以下国鉄)は国産の新形式(9600・8620・6760)を揃えた。しかしながらこれらの優秀機をもってしても対処しきれない急勾配区間への手当てとして、国鉄は電化(碓氷峠)、特殊機関車の投入(板谷峠・大畑越等)で対応する方針で望んだ。
そんな中、我が国の機関車政策に絶大な影響力を持つ志摩安次郎が、自由党と憲政会の政争の巻き添えを食う形で国鉄を去るに及んで、機関車政策上における冒険が多少許される気運が高まった。
大正9年。標準軌化を諦め、狭軌のままで標準機並の性能を出し得る高速機18900(C51)を世に送り出した国鉄は、貨物用蒸気機関車の決定版として1D1ミカド型貨物用機関車(9900)、1Eデカポット型貨物用機関車(19200)、そして重大幹線の隘路に投入すべきマレー式機関車を模索していた。
丁度その頃、新機軸を盛り込んだマレー式機関車をアメリカのボールドウィン社が売り込んで来た。大正10年の事である。
本来マレー式とは、ボイラーで発生した高圧蒸気を後部シリンダーに送り込み、使用後の低圧蒸気をそのまま煙突から排出せずに前部シリンダーに送り込んで再利用する方式を言う。
この複式マレーは確かに効率は良いが機構が複雑になる上に、低圧蒸気を送り込む前部シリンダーは必然的に直径が大きくならざるを得ない。建築限界が狭小で無数のトンネルや橋梁を有する我が国の鉄道で複式マレーを発展させる場合、必ずここに問題が生じて来る。
大正7年にアメリカ・ペンシルバニア鉄道で開発に成功した「単式マレー」はこれと異なり、ボイラーで得た高圧蒸気を同時に前後のシリンダーに送り込む。第一次世界大戦中の技術開発の結果実用化に成功した、14気圧の高圧蒸気に耐えられる「曲がる蒸気管(フレキシブルジョイント)」が単式マレーの成功の鍵であった。
これを元にアメリカでは「合衆国標準型機関車(USRA)」の一部のマレー式に単式を採用。各鉄道会社に供給されて絶大な威力を発揮していると言う。
尤も開発者のアナトール・マレーは最後まで単式をマレーとは認めず、アメリカにおいても「シンプルマレー」として区別していた節がある。
複雑な機構を有し巨大な前部シリンダーの為に高速運転時に蛇行を起こしがちな複式マレーに比べ、単式は重量配分が適当であるので走行性能は安定している。但し欠点は、同時に前後4個のシリンダーに蒸気を送る為、巨大なボイラーと広い火床が必要になる点が挙げられた。
ボールドウィンの提案に乗り気となった日本の技術陣は、先ず性能を測る為、同社からサンプルを購入する事となり、その第一陣4両は大正11年2月に神戸に来着した。
制式名称「19700」と命名された同機は暫く鷹取工場に留め置かれて構造の研究に当った後、全機山北機関庫に配属されて主に通常型9600や複式マレー9750と性能比較を行った。
その結果、出力では9600のほぼ1.8倍を擁し、9750とは比較にならない程の走行安定性を発揮した。欠点としては火室をなるべく大きく取る為にボイラー外径を限界一杯にしたので前方視認性が低い点と、石炭消費量が予想外に多かった点が挙げられた。
それらの点を踏まえて、和製単式マレーの設計が本格的に開始されたのは大正12年6月であった。浅倉希一博士を中心とする設計陣は折から製造中の9900型との共通項を増やす事でコストの削減、製造期間の短縮を図った。
途中関東大震災によって一時中断したが、19750型と名付けられたこの和製マレー1号機は、大正14年3月、日立製作所にて無事誕生した。
軸配置1-C-C-1、動輪径は9600と同じく1250ミリ、機関車重量は後のD52とほぼ同じ85.5t、全長21.5m、使用圧力は9900と同じ14気圧。全体のデザインは先に輸入したUSRAの縮小版19700を踏襲しながらも、テーパーの付かない直線的なボイラーや美しい化粧煙突等は明らかに9900のイメージであり、獰猛な肉食獣を思わせるアメリカ型の印象は薄まっている。
大正14年に出場した初号機から5号機までは粘着重量が予想外に不足しており、急勾配の力行時に前部台車側が空転しがちであると報告が入り直ちに設計を変更、前後台車の連結方式をそれまでの垂直ピンからボールソケット方式に変更する事で適正な重量配分が実現し、信頼性は増した。大正15年製造の6号~29号は、箱根を越える優等列車の補機としての使用を前提に連結器自動解放装置を備えていた。
通常は9900を本務機とした貨物列車の後部に付く事が多く、自動連結器、空気ブレーキの採用と相俟ってそれら貨物列車の定数、速度増大に貢献したのである。
「函嶺の大豪傑」19700、19750の東海道での活躍はそう長いものでは無かった。
昭和に入り東海道線が熱海、丹那トンネルを経由するようになると箱根廻りの御殿場線の輸送量は目に見えて減少し、マレー機達は時を経ずして高田、長野、敦賀等へ散って行った。そして戦前・戦中を通して信越線、北陸線の輸送を支え続け、昭和20年代後半には残存の全機(19700は昭和24年までに全機廃車となった)が直方へ移り、D50や9600より若干軽い軸重を生かして各運炭支線から筑豊線を経由して若松へ直通する石炭列車の先頭に立つ姿が見られた。
19750形式は、19757を最後に昭和33年形式消滅した。
その2へ