国鉄(インチキ)車両図鑑-10
国鉄における関節機関車 形式19700・19750・H50

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昭和29年の事であるが、ザンビア国鉄から一挙に40両ものガーラット型機関車の発注が舞い込んだ。
インド洋に臨むタンザニアのダルエスサラームからザンビアのカピリムポシに至るアフリカ東部の大幹線、TAZARA(タンザン鉄道・軌間1067ミリ)で使用する為の機関車である。

前後にボギー式の動力部分を持ち、その間にボイラーを跨らせたガーラット式は、マレーで問題となった広い火床の確保にも全く問題が無く、狭軌蒸気機関車に共通の問題点を一挙に解決してしまう究極の関節機関車であった。

この方式を引っ提げて、イギリスのピーコック社から国鉄に売り込みがあった。大正10年のマレー売り込みとほぼ同時期である。しかし狭軌鉄道に対する世界的な認識、詰まり連続する急カーブ、急勾配。そう言った劣弱な線路に完璧に対応出来るガーラット式はあくまでも植民地仕様の機関車であり、「狭軌=植民地鉄道」と言う呪縛から逃れる事の出来なかった当時の日本の鉄道関係者はこの「究極の狭軌蒸気機関車」を好まず、そのまま立ち消えとなってしまったのである。


南満州鉄道カライ

そうした流れとは別に、鞍山・撫順地区で重量貨物列車に使用する為、昭和5年にカライ(1-C-1+1-C-1)、昭和7年にカラニ(1-D-1+1-D-1)を設計、製造した経験を持つ満鉄から戦後国鉄へ移った技術者達の指導によって和製ガーラットは誕生した。



昭和31年、まず試作機H501(川崎)が国鉄に貸与され、金沢機関区において様々な試験に供された。
900tの貨物列車を本務機のD51ごと牽引するかのように、北陸線倶利伽羅峠の天険をものともせずに駆け上って行く様は、関係者に深い感銘を与えずには置かなかった。「もし大正末期に国鉄が本気でガーラットの導入に踏み切っていたら、今の輸送はかなり違ったものになったであろう」と臨席した天房総裁をも唸らせたと言う。

しかし幹線の電化は既定の方針であり、非電化線は遅くとも昭和40年代末までにはディーゼル化を完了させる事が国鉄の描く近代化の姿である。既存の蒸気機関車を極限まで磨き上げる事では無かった。H501は昭和33年に国鉄線での試用を終えメーカーに返還された。

40両の和製ガーラットは昭和34年までに全機ザンビア国鉄へ引き渡され、彼の地で昭和50年代後半まで勇壮な活躍を見せていたと言う。現在ルサカの鉄道工場に№6301(H501)が動態保存されており、年数回のファントリップに出場するそうである。





脆弱な線路と急峻な国土を持つ我が国で、こうした関節機関車が隆盛を見なかった理由が2つある。




一つには、英国の流れを汲む我が国の鉄道は、狭軌鉄道にしては緩い曲線で建設された点。9600に端を発する通常型貨物用蒸気機関車がやがて9900、更にD51へと発展して行く過程で、元来急勾配は固より、急カーブに対して絶大な効果を発揮するマレー式を投入するだけのメリットが消滅してしまったのである。

今一つ、これも国土の狭小さに起因する都市の稠密さ度合いが駅構内線長の策定に掣肘を加え、関節機関車の大発展したアメリカや豪州、アフリカ諸国のように列車単位を容易に増大させ得ない状況にあったからである。わざわざ手間の掛かる関節機関車を投入しなければ対処出来ない程の列車規模では無かったからである。

日本の国土に適合した機関車、それは平均的な性能を有し、職人はだの整備員が適正な研修を行い続ける限り滅多な事では故障しない機関車の事を謂う。決して一人突出した性能を発揮する機関車の事では、残念ながらないのである。

本稿参考文献
齋藤晃著「蒸気機関車の挑戦」NTT出版
廣田尚敬著「蒸気機関車」保育社カラーブックス

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