人のいない東京




”七重八重 花は咲けども 山咲の 味噌一舐めに 鍋と釜敷き”

「東京が江戸ですら無かった頃」。

太田道灌がここに城を築き、家康が小田原、鎌倉を振り切ってここに入府して以来、都市の化け物となった江戸は、現在に至るも周辺地域、ひいては日本全土を侵食し食い散らかしながら更なる拡大を続けています。
だがしかし、「番茶も十八出端も鬼(だったよね)」の例え通り、江戸湾の一隅にあたる当地にも未開発の時代があった事を思い出して下さい。原始江戸のありさまを表現するのに適当な言葉、それは、

萱原、藪、そして無人の海岸

に尽きるでしょう。
茫漠とした武蔵野台地が急に江戸湾に落ち込み、台地上を緩やかに流れて来た神田川等はその旅路の終わりを、台地末端を複雑に削り込む事で飾ります。
下図の時代、東海道は江戸湾を船で渡り、常陸の国が終点でした。荒川や新河岸川が形作る湿地帯は、官道を通すのに相応しくは無かったせいでしょう。また定住人口は非常に少なく、僅かに柴崎(内神田)、四ツ谷、品川に定住民を数える程度。その他には湯島天神と浅草寺の観音様がある程度で、恐らく(未確認ですが)図上の総人口は300~500人程度では無かったかと思われます。
従って図上には、本来赤い点で表現されるべき集落や灰色線で画き込まれるべき目立った道路は存在せず(甲州街道の前身はあったかも知れませんが位置が不明で記載は見送りました)、全く原始のままの姿を晒しています。
何時の時代にもこの国の最先端を走っていた江戸・東京の過去の姿。とくとご覧あれかし。