硫黄積み出しの集落・塩之沢





ある意味豊電は、塩之沢付近から産出される硫黄輸送の為建設された鉄道です。そうした意味において沿線の最大重要拠点は、人口稠密な豊米ではなくここ塩之沢であったと言って良いでしょう。
塩之沢は硫黄の採取が開始されるまでは、何もない無人の高原でした。明治末年に東洋化学社(現トーヨー重金)がここで硫黄の採取を始めてから定住人口が増え始め、鉄道開通前には鉱山労働者を始め輸送の為の馬方・牛方等が合計千人余りも住んでいたそうです。診療所や学校、映画館に洋食を食わせるレストラン、銭湯は間ノ沢の源泉から湯を引いて来るなど至れり尽くせりの環境であったようで、戦時中の一時期を除き悲惨さとは無縁の「労働の楽天地」であったそうです。
左図は硫黄輸送の盛んであった時代。右図は現在の姿です。
2~3箇所の採取地からケーブルやトロッコで駅まで運搬しますが、右中央にはケーブルから貨車への積換え施設が見えます。線路配置は地形の関係でスイッチバックになっています。図では判りませんが、この図のすぐ下側は千尋の谷。図の上方、豊米側はなだらかな高原地帯であるのに対して、下方の珊澄側は恐ろしいほど谷が切れ込んでいます。

豊米電鉄は硫黄の採取が終了すると、不採算区間である豊米-間ノ沢温泉間を廃止しようとします。しかし間ノ沢-塩之沢間の県道が開通するまでの繋ぎとして、末端である同区間も数年間残存しました。その為塩之沢駅構内に仮の車庫を置き、経営は親会社である珊豊交通自動車に委任されました。

移管後 の同路線は悲惨の一言に尽きます。電気機関車二両、客車二両、貨車一両で運営。一日4~5往復。車両や線路のメンテナンスもロクに行われず、列車は波打って走っていました。乗客は常で一日十数人。休日はゼロと言う日すらあったと言います。いよいよ廃止が近付くと列車本数が次第に間引きされ、地元の人に言わせると「ある日気がついたら列車は走っとらんかった」そうです。またある関係者によれば「廃止日のお別れ列車の飾りつけに使うモールや色紙を買うカネすら無かった」。これ程悲惨な最後を遂げた鉄道を、私は他に知りません。

そして現在は右図の通り。霧の流れる唐松の梢に鴉が鳴くばかりの寂しい無人境に戻っています。ここも定住人口は0です。