終着駅・間ノ沢温泉





間ノ沢温泉の開湯は比較的新しく、江戸末期頃、珊澄の猟師によって発見されたと言います。固より火山の影響で周囲には小規模な温泉が数多く湧いていたのですから、発見されたとてこんな山奥では出かける人も少なかったと見えます。温泉場の開発は、先に触れた塩之沢の共同湯への引湯から始まります。塩之沢診療所の医師で泉質学を学んだ岡島靖太郎が大正四年に検査した結果リウマチや冷え性に効能顕著と判り、それ以来源泉である間ノ沢にも宿が建てられ次第に発展して行きます。
豊電が開通した後は一層発展し、戦前の一時期には間ノ沢~珊澄駅間のバス、宿泊、間ノ沢~越浦間の電車をパックにした回遊クーポンも発売される程メジャーな観光地となりました。その色合いは、戦前期にあって既に「山間の湯治場」から「歓楽地」へと様相を換えていたようです。面白いのは、以前の間ノ沢温泉では珊澄へ行くよりも越浦へ行く方が便が良かった為、芸者置屋は伝統的に豊米の置屋の縄張りとなっている事です。もし現在、間ノ沢で芸者を揚げようとすると、そのハコ代(芸者を呼ぶための車代)は数万円にも上る(温泉組合の取決めで間ノ沢には芸者が常駐できない)為、相当の出費を覚悟しなければならないそうです。

上図は鉄道の通っていた時代。下図は現在の間ノ沢温泉中心部です。
図の右下に見える日本建築は、間ノ沢がメジャーになって初めて建てられた旅館「明雲荘」の本館です。木造三階建て。現在では消防法によってそのような建物は建てる事が出来ません。過去の宿泊者名簿を繰ると、結構名前の売れた政治家や軍人、戦後ではGHQの上層部の面々の名前も見られます。

その「明雲荘」も戦後のレジャーの大衆化の流れには勝てず、道路向かいの空き地、そこはかつて豊米電鉄間ノ沢温泉駅であった場所に新館を建設します。昭和37年の事です。
下図を見ると、間ノ沢温泉駅舎が旅館のビルに取り込まれているのがお分かり頂けましょう。これは明雲荘の先代主人たっての願いで保存されたもので、二階建て洋館造りの旧駅舎の一階は土産物店とバス待合所。二階は「豊電記念館」として、かつての写真や切符、電鈴や電気機関車の部品等を展示しています。