戦後の羽根鉄道
23-1 形式キハ40(41)←西南鉄道キハ51
←国鉄キハ二40211←中武鉄道キハ二11
41(19日車)
戦後一時、農村には暖かい風が吹きました。軍隊がなくなり若者は農村に戻って来ましたし、農地改革で自作農が増えた事で農民にやる気が生まれた時代です。
羽根鉄道にとっては、貨物の好調に加えて1953年に半田川町に県立高校が開校したため、旅客需要も大いに高まった「ほんの一時の夢」の時代であったのです。
40番台は機械式中型気動車に振られた番号です。各地から様々な経歴を持つそれら気動車が次々に輿入れして来たのが、1950年代初めの羽根鉄道の動きです。
31-1は40番台兄弟の中で最も古く、羽根入りした時点では再起不能と見られていました。何とか自走車両を増やす事に懸命であった現場の努力で気動車として再起し、1970年頃まで使用されていました。側面を見れば判るように、当初はキハ二として製造されましたが、羽根時代には荷物室は撤去され、荷物扉は「開かずのドア」となって、通学生や行商人の荷物置き場として活用されていたそうです。第二エンド側の台車は珍しい偏心台車を履いているのに注目して下さい。
23-2 形式キハ40(42)←中屋電鉄クハ201←北九州鉄道
キハ20
42(1938日本車両)
元々流線型ガソリンカーであったものを電鉄会社で制御車として使用されていた例は全国に数多くあります。しかし、その後再び気動車として再起した車両は滅多にないでしょう。
入線は1952年。その後1963年に一旦休車扱いとなりましたが、そのまま廃車にならず実に2000年まで予備車として残置されていました。1970年以降の羽根鉄道は「物持ちが良い」事で知られていましたが、この車両は正にその評判を地で行ったものであると思います。
23-3 形式キハ40(43)←国鉄キハ40111←千谷鉄道キハ101
43(1937日本車両)
日車兄弟の中でも最も日車製らしいスマートなガソリンカーです。3両あった中型ガソリンカーの中でも最も調子が良く、一時はキハ30型と共に主力車として活躍していました。
1964年にこの車両だけディーゼルエンジンに換装し、総括制御可能車となりましたが、惜しい事に1969年3月、新郷で発生したダンプカーとの接触事故で再起不能となってしまい、そのまま廃車になりました。もし事故に遭わなかった場合、キハ42の換わりに43が予備車として残ったかも知れません。
23-4 形式キハ100(101、102)←国鉄キハ41216、41315
101(1938日本車両)
102(1938帝国車両)
皮肉な廻り合せとはどの世界でもあるもので、1950年代以降、羽根鉄道では輸送力増強のため「国鉄キハ41000型」の導入を事有るごとに要請して来ました。しかしその都度余剰車が無かったり、値段が折り合わなかったりと、その実現は遅れに遅れました。ようやく1970年に至り国鉄から譲渡可との返答を得た時点で、既に羽根鉄道は存続の危機に立たされていたのです。
東京オリンピックを境に日本人の生活様式は大胆に変わり、羽根町の特産である「上質の木炭」は都市ガスの普及に伴って「不要の逸品」となってしまったのです。時を同じくして農村では「減反政策」が過疎化を推進し、若いモンは街に出たきり二度と戻っては来ませんでした。辛うじて地元に残った若者は、既に自家用車オーナーとなり、そうした社会の流れの中で羽根鉄道は完全に取り残されてしまった時代だったのです。
「羽根鉄道最後の新車」として導入されたキハ100型は、殆ど通学専用車となって、それまで活躍していた中小型ガソリンカーを脇へ追いやり、逆に100型2両あればそれだけで十分と言う輸送状況であったのです。
102型は一足先に1984年に廃車。101型は実に2001年春まで予備車として残りました。現在101型は地元児童館に保存されています。
23-5 形式キハ200(201)←鴻岡鉄道キハ201←国鉄キハ
42017
201(1939日本車両)
同じ幸島県内の私鉄、鴻岡鉄道から借用していた気動車です。キハ43型の事故廃車に伴い、1970年より借入れました。側面を見れば一目瞭然なのですが元々は国鉄キハ42000型です。正面を切妻に改造した姿で入線。1970年代後半では、キハ101と共に主力車として活躍していました。後にキハ300型の使用開始に伴って一旦鴻岡鉄道に返却され、その後鬼怒鉄道へ売却。1999年まで使用されていたのをご記憶の方も多いのではないでしょうか。
23-6 形式キハ300(301、302)
キハ301(←国鉄キハ10 45)
キハ302(←国鉄キハ10 173:廃車)
後述するキハ300型の羽根鉄道標準色時代の姿です。