2軸ガソリンカーの全盛期





21-1 形式ジハ1(1、2)←キハ10(11、12)←ハフ11
     1、2(1930日車)           ←南樺石油ハ6



大正時代の羽根町は正に隆盛の一言で言い表す事が出来ました。空前の好況に沸き返り、それを反映してか羽根鉄道も次のステップを踏むためにひっそりと蓄財が出来ました。
その結果が、「鄙に置くにはマコトに勿体無い」と表されたジハ1型ガソリンカーの導入です。スタイルはやや古めかしい「単端式」ではありましたが、着目すべきはその「無駄に豪華な」車内でした。フカフカのソファにアールデコ調の装飾が施された網棚の腕、シャンデリアめいた車内灯と、未だに語り継がれている程の「未曾有の」豪華さを誇っていました。
昭和大不況と東北の大凶作に痛めつけられた人々を勇気づけるために、当時の役員は智慧を絞ってこのような豪華版気動車をデビューさせたと言い ます。

上図は登場当時の姿。金色のラジエターカバーが誇らしげです。






これは試験塗装です。1933年に白と緑に塗り分けられ「病院船色」と揶揄された姿。翌年には元の茶色に戻されました。





これは戦時中、燃料の入手難からエンジンを下ろし、付随車化した姿。最も整備が行き届かなかった1945年冬の姿です。エンジン跡は合板で塞がれ、窓の大半も板張りで目隠し。元々が「省二等車並み」と言われた豪華車両であっただけに、その悲惨さは一層深いものでした。






戦後改修を受け、気動車のトレーラーとして使用していた頃の姿です。戦後になってもエンジンを再架装する事無く、1958年に廃車されました。

ジハ1型はこのように羽根に残ったのですが、僚車のジハ2型は1943年に樺太の石油会社に売却され、彼の地で客車として使用されていたそうですが終戦後の行方は杳として知れません。ただ、近年になり、研究者の徳沢一耕氏のレポート(鉄道ピクトリアリズム2000年3月号)で、サハリン中部の炭鉱町、ボストーチナヤの鉄道駅で売店として使用されている「日本車輌」の銘板を付けた廃車体を目撃した話が掲載されています。もしかしたらジハ2の変わり果てた姿かも知れませんが、今後の研究が待たれます。



22-1 形式キハ30(31、32)←ハフ31、32
     31、32(1935日本車両)



ジハ1型(1934年に改番後はキハ10)の成功に気を良くした時の経営陣は、更に2両のガソリンカーを導入して、一気に客貨分離を図ります。今度は単端式ではなく、通常の車体を持った標準的な車両でした。
流石に車内はジハ1のような「常識外れの豪華さ」はありませんでしたがそれでも開業以来使用してきた客車に比べれば随分と乗り心地は良かったようです。戦前の旅客輸送量はほんの雀の涙程でしたから、これら4両のガソリンカーで充分に「客貨分離」は成功するやに見えました。





1937年に日中戦争が勃発し、以降過酷な燃料統制が始まりました。元来陸軍と親密な関係にあった当時の羽根鉄道も例外ではなく、1939年から木炭ガス発生炉を搭載した「木炭ガス動車」として使用を続けました。元々羽根町は良質な木炭の産地でしたから燃料には事欠かなかったようです。
上図はその時代の姿です。





これは戦後民生のガソリンエンジンを再架装して蘇ったキハ31型。小型車で取り回しが効き、燃費効率も良かったのでかなり遅くまでこの姿で活躍しました。





その後1959年にエンジンを降ろし、客車になった姿。後述する中型ガソリンカーに牽引されて1970年頃まで活躍しました。