世界(インチキ)博物誌1-2


「TVドラマ、ハドリアヌス」1978年6月16日放送
「寛容によって救われた命」より前半部分


「ご隠居、パンノニア・インフェリオールって言うからどんな辺境かと思ってましたけど、ずいぶん賑やかですねぇ」

「さよう。辺境と言うのはローマ人の考え方に他なりません。ダキア人にとっては一番身近なローマなのですからな」

「そうですな、おいハチ、見てみろ。市場の人だかりの半分は異民族だろう」

「そうです。こうしてローマ人と異民族とが仲良く打ち解け合っていさえすれば、やがて防壁も要塞も不要となる日が来るでしょう。そうあって欲しいものです」


「ちょいと、旅の人。今夜のお宿はお決まりかい?」

「いや、これと言って定宿がある訳じゃないんだ」

「だったらさ、あたしん所へ泊まっておいでな。建物はボロだけどさ、料理だけはパンノニア・インフェリオールで一番だよ。何しろウチには、ビザンティオンのお屋敷で料理頭をしていた解放奴隷がいるんだからね。それが他ならないあたしの亭主なんだけどさ」

「随分人を食ったおかみさんですね、ご隠居」

「ねぇねぇ、ご隠居。ここに泊まりましょうよ」

「ハッハッハ、やれやれ、ハチは食い気ですかな。他に泊まるあてもありませんし、どうですかな、こちらでご厄介になっては」

「えぇ、そう致しましょう」

「はぁい、お四人様ご案内だよー」


「邪魔をするぞ」

「あぁ、お役人様」

「お宿改めである。亭主。宿帳をこれへ」

「へいへい、どうぞお改めを」

「ウム。…おいっ亭主っ」

「へっ?」

「このカンパニアの亜麻布商人の隠居でハドリウスと言う人物は、確かにここに泊まりおるのか?」

「へぇ、先程お着きになった所で…」

「供の者を連れていたか?」

「へい、頑丈なのが二人と、あとボーっとしたのが一人…」

「間違いない! これっ亭主!」

「うへっ」

「拙者はこれから要塞に立ち戻り、司令官ディディウス様をお連れ申す。それまでの間、一行はこの宿から一歩も出してはならぬぞ。一歩でも出して見よ、その方の首はきっと繋がってはおらぬぞっ! 相判ったか!」

「へっへぇ、ユピテル大神に誓って仰せの通りに」


「ちょいとちょいと、お前さん」

「あぁ?」

「あぁ、じゃないよ。今のを聞いただろ」

「聞いたも何も、あのお客を出すんじゃねぇって」

「そうじゃないよ。わざわざ司令官様を呼びに戻った位だ。あの爺さん達、ひょっとしたらひょっとするよ」

「何だ、ひょっとするって」

「聞いてないのかい? 最近モエシアで山賊がやたらに出るって言うけど、その頭目か何かじゃないのかね? 危なくなって来たんで頭だけパンノニアに逃げて来たんだよ」

「そうかぁ? そんなようには見えなかったけどなぁ」

「だからお前さんは何時まで経ってもうだつが上がらないんだよ。良くお聞きよ。何時だったかさ、鍛冶屋のポルキウスが街道で盗賊を捕まえただろ、あの時のご褒美が20デナリウスだったじゃないか」

「うん、そうだ。随分貰ったもんだよな」

「あれがもし山賊の親玉だったら、ご褒美はデナリウスじゃ追っ付かないに決まってるじゃないか。ターラントだよターラント!」

「ターラントかぁ、表の庇が治せるかな」

「馬鹿だね、1ターラントもあればこんな宿は畳んじまって二人して別荘を建ててさ、遊んで暮らせるじゃないかね!」

「じゃ、じゃぁあいつらに逃げられないようにしとかないとな」

「そうだよ。殴りつけてグルグル巻きにおしな。おーい、手の空いてる若い者は帳場へおいで!」


「しかしご隠居、あのおかみさんは嘘が吐けないようですな。この部屋の汚い事と言ったら…」

「しかしまぁ、これも何かの縁です。食事を楽しみにしましょう」

「そうですよご隠居。あっしゃもう今から楽しみで楽しみで…」

「ご免下さりませ」

「あぁ、ご亭主。この度はご厄介になりますぞ」

「えぇえぇ、どうぞゆっくり、して行って、くだ、さい、ねっ」

「あっ、痛いっ。これ、何をするのです?」

「おいっ、乱暴はよせ!」

「うるせぇやい、この大泥棒め、今にもここへ要塞司令官ディディウス様がお見得になるからな、手前らの悪運もこれまでだって事よ。ざまぁ見やがれってんだ、このくそ爺いめ」


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「ご隠居、大事ありませんか?」

「あぁ、痛い。お前さん方は頭に毛があるからまだ増しなのです。わしはこの通りの頭ですからな」

「もう少しのご辛抱ですぞ、それ、今に、くっ、硬い。あの親爺、どんな結び方をしたんだ。解けやしないぞ。おい、カクさん。どうだ?」

「さっきからやってるんだが、…駄目だ」

「ご亭主は司令官ディディウスがやって来ると言いましたな。これは困った事になりそうですぞ」

「ご隠居、司令官ディディウスとはどんな御仁ですか?」

「さよう、真面目で几帳面なのは良いのですが、些か大げさな所がありましてな」


「どけどけっ。どけっ。これやい、亭主っ」

「へぇぇ、司令官様。ようこそのお運びで」

「ハドリウスと言う老人は…」

「へい、お言い付けの通り、この家から一歩も外には出しておりません」

「おぉ、さようであったか」

「へい。全員棒で殴りつけて…」

「棒で殴り… 棒で…?」

「荒縄で椅子にグルグル巻きに縛って…」

「グルグル…何処じゃ? 早う案内致せ!」

「へいへい、こちらでございます、へい」


「もうちょっとだ、もうちょっとで解ける…ご隠居、今しばらくのご辛抱を」

「何処じゃ」

「へい、こちらで」

「あぁ、万事窮す。ディディウスが来たようですぞ」

「やいやい、この爺いめ。司令官ディディウス様がいらっしゃたぞ。明日の朝になれば手前の胴にゃ冷てぇモンが突き刺さってんだ、今の内にプルートーへの言い訳でも考えておく…」

「うへへーっ」

「…ディディウス、久しいの」

「まさかこのような形で再びお目に掛かろうとは。属州民の為したる事とは申せ無礼とも非礼とも言わん方無き今日の所業、このディディウス目あれども節穴に等しく、赤面汗顔恐縮の至り。何卒この身にご存分なるお咎めを賜りますようお願い申し上げ奉りまする。これっ何を致しておる。早う縛めを解いて差し上げろっ。誰ぞあるっ! 宿屋夫婦に縄を打てっ」

「いや、ディディウス、あのな」

「しっ司令官様、これは一体何がどうなっちゃてるんです?」

「たわけっ。その方ら、こちらの御方をどなたと心得おるかっ。勿体無くもローマ帝国皇帝、ハドリアヌス陛下におわすぞっ。控えよっ」

「げぇっ、こっ皇帝陛下?」

「あの、あのあの、司令官様、皇帝陛下って言いますと、あの皇帝陛下ですか?」

「他にどの皇帝陛下がおると申すのじゃっ、たわけた事を申せ! さても許し難きは宿屋夫婦。畏れ多くも至尊に対し奉り不浄の縄を掛け、それで足らずに尊きお頭を棒で懲摘致すとは…そこへ直れ」

「へっ?」

「そこへ直れっ。我が刀に掛け、一寸刻みに切り刻んでくれるわ!」

「これ、ディディウス、待ちなさい」

「はっ陛下。そうでございましたな。皇帝陛下は法を体現されるお方。私憤に拠らず、法に則った裁きを下しまする。これやいっ宿屋夫婦! その方らの所業、大逆罪に当る。軍神マルスに代わり、このディディウス極刑を申し渡す。これより直ちに鉄檻にてローマへ護送し、闘技場において生きたままライオンの餌にしてくれるわ」

「ひえぇ、ライ、ライオ、ライオン?」

「お、俺ぁどうもあの獣だけは好きになれねぇんですよ」

「嫌と申すか! ならば全身に松脂を塗り、生きたまま松明となるのが良いか! それとも剣闘士と死ぬまで闘うのが良いか! どれかに致せ! 全部でも良いぞ! 遠慮するな!」

「いや遠慮するよ」

「これっ、ディディウス。人の話を聞きなさい」

「はは」

「良いかな。わしをローマ皇帝と知っての狼藉であれば許し難いが、今のわしを見なさい、唯の楽隠居、田舎爺いじゃ。知らないでした事だから許してやっておくれ」

「ははぁーっ。何たる広大無辺のお志。このディディウス、感服仕りました」

「ご隠居、随分芝居がかっていますな」

「うむ、憎めない男なのですがな」

「宿屋夫婦、その方らの為したるは万死に値する所、陛下のお情け深きご沙汰が下ったぞ。これより後は命ある限り、朝な夕なにローマに向かい、三拝九拝致すが良いわっ! さよう心得えよ!」

「うへぇー、勿体無くも、ありがたき幸せ」

「ディディウス、何か書く物を貸して下さらんか」

「はっ、これを」


この時ハドリアヌスが羊皮紙に書きつけたのはこうであった。

『この宿はパンノニア・インフェリオールで一番安全な宿屋である/ハドリアヌス』

この書き付けは現存しており、ブダペストの国立博物館で現物を見る事が出来る。


「ご亭主。これをな、帳場の後ろに貼っておきなさい。商売繁盛のご利益がありますぞ」

「へぇーっ、勿体無い事でございます」

「さ、陛下。かようなむさい所は早々に引き払い、我が砦へお越し下さいますよう」

「フン、むさい所で悪かったね」

「何ぞ申したか!」

「い、いえいえ、何でもございません。アレシア、黙ってろ」

「道を開けぇい! ハドリアヌス皇帝陛下のご出立であるぞ! 軍団兵共! 皇帝陛下であるぞっ!」

「ハイルインペラトール! インペラトール! インペラトールッ!」

「何とも大げさですな」

「これ、笑ってはいけません。本人は大真面目なのです」

「しかしご隠居、何故我々の事が露顕したのでしょう?」

「うむ、それは砦で問い質さねばなりませんな。属領内で何かが起きているのかも知れませんぞ」

「ねぇ、ご隠居、軍団基地だとさぞや飯が不味いんでしょうねぇ」

「ハチ、何事も我慢です」


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