戦時体制が世に浸透し、木材の需要は日々高まっていた。それに呼応するかのように軌道は奥地へと延伸した。
急峻な丹沢表尾根の三ノ塔東北斜面の懸崖に桟道を渡し、その他の伐採地でも、通常鉄道を敷く事など思いもよらない絶壁上や、急流奔騰する早瀬の真上を木材で桟道を組み、滝の飛沫を浴びるような場所まで線路は伸びて行った。この時代、そうした名もない集材支線が至る所に建設され、多くは数か月使用したのみで他所の伐採地へと再度建設される。
目次で「全ての線路を網羅出来ていない」と書いたのは正にこの時代を指すのである。



機関車が代燃炉を積み込む前の昭和14年頃まで、便乗希望者は最前の救急車改造レールカーや木造トロッコに乗って奥地へ入って行った。トロッコには椅子は無く、乗客が自分で筵を用意する決まりであった。屋根も窓も無く、雨が降るとアンペラのテントを被せた。酷い客車だが地元民は無料であった。