創作落語・たいこの帰還



ええ、ただ今では大変にこの珍しくなったご商売に「幇間」と言うのがございます。お座敷に上がってお客のご機嫌を取り結ぶ、ごく上手な方になりますてえと、これと言って芸事もしない、けれども唯居るだけでお客は満足すると言う芸達者な方もおりました。
幇間にも上中下、さまざまございまして、ただ今申しましたのは上の上、極上の部類。じゃあ下の極みは何かってえますと、所謂「野だいこ」てえヤツです。「たいこ持ち 上げての上の たいこ持ち」。これは町中をウロつきまして、知った顔が通りかかると早速これを取り巻く。従って心臓が三つもなきゃあ夕方の蝉でその日暮らしてえやつですね。
まあ何のご商売にしてもさてこれが易しいてえものはございませんで、運よくお座敷へ上がった所でその都度旦那をしくじっていちゃあこれ何にもなりません。旦那に欠伸の一つもさせると、これは幇間失格てえヤツでして。尤もお客の方でも余り無理な事あ言わない。色々取り持って自分を喜ばそうてえヤツを無下に扱いでもしますてえと、これが余所のお座敷で広まっちまう。それでご自分の信用を落としちまう事も良くあったてえます。だから物の分かった旦那は、贔屓の幇間を大変この可愛がったてえます。
ただまあ旦那衆にも上中下がありますようで、中には悪い人もいましてね、無理難題を吹っかけて幇間が右往左往する様を喜んで見てるなんてえ悪い人もいたようで。


「おう、一八」

「ヘイ若旦那、どうもありがとうございまして」

「何イ? 手なんぞ出して」

「憎いよこの、どうものこのああたてえ人はね、こないだのあのお妓さんでしょっ、初回惚のベタ惚てえヤツだ。今頃は、あああの人は今夜は来るか明日は来るか、待って焦がれて焦がれて待ってるてえ…へえ、何か頂戴」

「お止しよ、この人アあたしの顔を見るてえ傍から何か欲しがるね。ここは表通りじゃないんだよ、お座敷じゃあないか。ねえ、何もしないで何か頂こうてえのはね、そりゃ、うん、まだ手エ引込めちゃいけないよ。ねえ、お前なんざ朝寝坊がしたい、昼っから人並みに働きたくはないからてんでたいこ持ちをしてるんじゃないか、まだ手エ引込めちゃいけないてんだよ。ね、まアあたしも、お前には随分楽しまして貰ってるからね、今夜はお前に労働の有難みを教えてやろうじゃないか。まだ手を引込めちゃ」

「え、若旦那の前ですけど、手エ引込めちゃいけませんか?」

「そうだね、じゃああたしが今お前に十円の祝儀をやろう」

「エエ? 十円? 十円もあの頂けるんですか?」

「ああやる。で十円をやる代わりに、一生涯この手を出しっぱなしにしとくてえのは…」

「冗談言っちゃいけねえ。一生涯手を出しっぱなしにしてりゃあ、あたしゃおまんまが食い上げてえヤツで」

「ンな事ア判ってますよ。今のはこれは悪質な冗談だ。では本題に入ろう…」

「ヤだね、若旦那、何だか目が血走って来ましたよ」

「その出した手のひらにね、今ここに着いたばかりの熱燗があるから、そいつ乗っけてステテコやなんぞを踊っ…」

「若旦那、悪い冗談は無しっ。第一熱うござんしょ」

「熱くない熱燗てえのはないよ。丁度いい、手のひらの皮が厚くなるからね、それを剥がしてベースボールの手袋にしてみな。お前儲かるよ」

「え、何か他のはありませんかね他の事だったら大概は…」

「お前酒には目がないだろ?」

「ええそりゃ酒とくれば馬鹿なお好きなんですええ、タダなら」

「そりゃそうだろうよ。でね、こう、表に台湾バナナの屋台が出てたからね、そう言って極く甘いヤツを一房買って来てね、お前はそのバナナでもって飲み明かして…」

「冗談言っちゃいけねえ、胸が焼けますよ」

「炭代が助かるだろ」

「いけませんよ若旦那、どうしてああたはそう碌な事思いつかないんです? 愚(五)にも付かねえ碌でなしてえヤツだ」

「碌なこっちゃ無いけど、面白いだろ。まあ良いや。今までのは冗談だよ。流しとくれ。でね、今からあたしがお前に言いつける事をだね、お前がちゃんとし遂げたら、あたしはお前に三十円と言う祝儀をやろうじゃ…」

「どうっ、三十円? 若旦那ああた三十円もご祝儀付けてくれるんですか? 三十円? 頂きたい。頂きたいねそりゃ豪儀だね、あ、十円でバナナで酒を飲むんだから、三十円だったらきんつばか何かで…」

「きんつばで飲む事を考えてやがる。そうじゃないよ。用事てえのは他でもない、あたしの親類が富山にいるのはお前も知ってるだろう? そこへね、今からあたしゃ手紙を書くから、そいつを一つ届けて来て貰いたいんだよ」

「ねえ、若旦那、性質の悪い冗談は無しですよ、何だって、ええ、郵便局へ手紙持ってくだけで三十円とは、ちっとばかり出来た話じゃご…」

「誰も郵便局へ行けなんて言ってないでしょう? お前に直接富山へ手紙を届けて貰いたいって、そう言うこったよ」

「ええっ、ってえと何ですか、あたしがこれまで一度も東京を離れた事が無いから、若旦那のお情けでもって富山までお遣いに行くってえ名目で、あたしを物見遊山に出して頂けるってこう言う事なんですか?」

「お前は説明が上手だね、正しくその通りだよ」

「ああっ、有難え、今までそう物の分かった良い若旦那とは夢にも思わず、陰に回って日陰の梅の木だとか乾いたおまんまっ粒なんて言って申し訳ご…」

「乾いたおまんまっ粒って…オイオイ、お前は今までそんな陰口聞いてたのかい。また随分な事を言われたもんだねえ」

「あっいえいえその、そんなこんなも全部ひっくるめてこの通り旧悪は悔い改めて一所懸命ご奉公しますから、ねえ若旦那」

「ああ」

「その三十円てえのは今頂戴出来るんで?」

「ああ、さっきもそう言ったろ、三十円の祝儀は、お前が帰って来た時に渡そう。ああ、もちろんこっから富山の叔父さんとこまでの足は、あたしがちゃんと工面するから」

「益々もって頭が上がらねえてえヤツだよ。若旦那、どうもありがとうございまして。じゃあ何ですか、今この楼の前に俥がスッとこう着くてえような按配で…」

「誰がお前を俥に乗せてやるってったよ?」

「ああ、そりゃそうだ、この家来一八、考え違いてえ事で面目これなしときた。幾ら大店の若旦那とは言え、一八如きに俥でもって停車場まで遣わすなあ無駄てえもんだ。じゃあ何ですか、これから新橋の停車場に皆でワッと繰り出しの、一八っつぁん行ってらっしゃいの、ヘイ気を付けて言って参りますの、今は山中今は浜の…」

「誰がお前を汽車に乗せてやるってったよ?」

「あれ、何やらおかしな風向きになってきやしたよって事に及んでは、これは事によると事によりそうですか? ねえ、若旦那、あたしは一体全体何に乗って富山まで行かして頂けるんで?」

「うん、あたしん所の物置にね、古い自転車が放り込んであったんだが、それん乗ってね、小仏峠越えて笹子峠越えて念場が原越えて野麦峠越えて、甲斐から信濃から飛騨を抜けて越中へ行って、行って帰って五日で戻るんだよ」

「こりゃ冗談じゃねえ、命あっての物種、石に布団は着せられずてえ寸法だ…さいなら」

「ああ、そうかい、お前が空身でねこの座敷から出て行くね、もうそれっきりでお前は出入り差し止…」

「あいやっ、暫く、暫くてえヤツだ。そっから先は口に出さねえでおくれなさいましな若旦那。行きゃあ良いんでしょ。ねえ、こんな一八を可愛がって下さる物の分かった若旦那だ、よしっ一八も男でござんす、こうなりゃ思い切って行きやしょう、行って自転車、帰りは汽車てえ寸法で十五円頂戴てえ…」

「そりゃあ聞かれないよ、お前が自転車でちゃあんと帰って来たら三十円。これすぐにあげる。その代りね、もし五日の日限に間に合わなかった時には…」

「ヘエ、お出入りは金輪際ナシって訳でご…」

「そんだけじゃあないよ、間に合わなかったらお前があたしに三十円寄越すんだよ、良いね?」

「ヘエッ、あたしが若旦那に三十円? あの払うんですか? そりゃあ、そりゃあご無理ご無体勿体無えてえヤツだ。あたしは今五十の銭もありませんよ、銭に出っくわしたら銭に足が生えて向こうから逃げ出すんですから、ええもうその足の速いの何のったら…」

「お前に銭が無いのは百も承知二百も合点だよ、詰まりこれはね、あたしとお前の賭けだ。一日体張って自転車漕いで六円。悪かないだろう? …それ、この封筒をね、向こうへ行って渡しとくれ、良いかい絶対中を覗いちゃダメだよ」

「ヤレヤレ飛んでもねえ事引き受けちまったよ、じゃあ若旦那、あたしは覚悟を極めました。惚れた三十円の為にあたしゃあね、一つしきゃねえ命を張りますから」

「そうかいそうかい」


若旦那は上機嫌。早速お宅へ遣いが出ます。程なく、どっから掘り出したか古い自転車を持って戻って来る。


「この自転車なんだけどね」

「これですか? え、これ? 随分とまあ年季が掛ってますねこれ。古風にして雅ならずてえヤツだよこれ。これちゃんと動きますか?」

「さあ、そいつはどうだか。何でもあたしの親父が若い時分にね、遣いだ御用聞きだって言っちゃあ乗って歩いてたそうだから…」

「えっ、大旦那の? あの大旦那の若い頃てえますと…」

「さあてねえ、確か西南の役の頃だったから…」

「じゃあかれこれ二十年も前の…で、その頃新品のパリッパリだったんでしょうねこれ」

「いや、確か古道具屋で安く買ったそうだから…」

「ああ…その時分でもう古物だったんですか…ええ? 前の輪っぱがまた大きいねえ。ペダルなんざ錆だらけだね。錆色雲で空が見えぬときたもんだよ。ねえ、若旦那?」

「何だい?」

「この自転車には何ですね、ブレーキてえもんが付いてないですね」

「ああ、それはね、あたしが気を利かして外しといたよ。お前は芸人だから普段から力仕事はしつけないだろう? 信州国境の野麦峠を越えれば後は下り坂ばっかりだから、ブレーキなんぞ掛けないでもそのまんま富山まで下っていけるだろう?」

「参ったねどうも、危なっかしくてしょうがない。ええ、臣一八、若旦那に一つお尋ねしたき儀がございます」

「手短に頼むよ」

「あの、道中で一足二足の草鞋やなんぞは出やしないでしょうね?」

「一足二足の草鞋、とは?」

「〆て山賊」

「洒落てるね。山賊なんか出たのは昔の事だ。今は出ないよ」

「安心しました」

「山犬は出るよ」

「山犬う? 出るんですか山犬、さあ大変だ山賊より性質が悪いよ。じゃあ若旦那、行って参ります。道中で何かあったら若旦那、線香の一本も手向けて下さいましね」

「ああ、手向ける手向ける。まあ銭の無いお前の事だから、途中で自転車おっ放り出して汽車で行くような事はないだろうけどね、死んだって構わないから自転車は持って帰るんだよ良いかい判ったかい?」

「三十円忘れないで下さいね三十円」

「お前も忘れちゃダメだよ、遅れたらお前があたしに三十円出すんだからね、行っといで!」


って悪い人があったもんで。元々自転車を漕ぐなんて力仕事をしつけないたいこ持ちの一八が、金の力ってなあまあ恐ろしいもので。

その日の午前三時に若旦那の元を出まして、小仏峠越えて笹子峠越えて甲府で夜が明けて諏訪湖が十時深志でお昼島々から白骨温泉通って野麦を越えるのは日の暮れ方で山犬に追っかけられながら飛騨の高山通って猪谷通って越中は八尾で丑三つ時でようよう富山に着いたなあ翌日の午前四時と来てますから、何が早えって落語より早えモノはありません。

富山の云われた場所に着いた時の一八の姿は、目は落ち窪み目の下は隈取で真っ黒、頬は削げ落ちて頭は疲労と恐怖で真っ白け、目の玉ばっかりがギョロリとむき出して異様に光ってえる。服はあちこち引っ掛けたんだか山犬に食いちぎられたんだかでビリビリになってまして、どう見てもこれが幇間たいこ持ちには見えません、爆発に巻き込まれたかかしのような態で。


-トントントン


「ご免下さいまし…トントントン…ええ…おそなわりまして…トントントン…新橋から…若旦那…トントントン…お手紙…トントントン…三十円…」

「おいおい、誰かおらんか。表で何か怒鳴ってる人がおる。ええ、新どん、表で怒鳴ってる人がおるえ。お菰さんかも知れんから何か渡して帰って貰いやれ」

「ヘイ、何やこんな夜更けに。何時や…ああまだ四時やがいね…ええ、何用か存じませんが商人の店は七時に開ける事になっておりますで、ご大層ですが七時になったらお越し下され」

「トントントン…お手紙を…早く開けて…トントントン…三十円…トントントン…たいこの…」

「たいこ? 太鼓なら門違い、ウチは薬種問屋ですので、まあまたお越し…」

「開けて…開け…」

「オイオイ強引やな、無理に開けたらだちゃかんで」


大戸が壊れるから手代が仕方なく開けるてえとそこにいたのは、悪鬼に憑りつかれたかかしの出来損ないが、血まみれの顔でもって全身から濛々と湯気を吹きだしている。


「ヒアッ、何やお前は…ばっ化け物っ」

「三十円三十円三十円あと三日三十円っ」

「何じゃお前はいきなり人の胸倉掴んで、放しやれ、放さんか、こう見えてもあたしは村相撲の元大関や、化けもんなんかに後れは取らんで…さあ来いっ!」

「表が騒がしいと思うたら新どん何しとるんや、明け方から店先で相撲を取るダラスケがおるか。退きなされ…お前さんは見た所人間のようやが、何じゃ? 何か用事があって…ええ、東京から来たア? 自転車で? あのお前さんは…ああ、幇間の一八さんて言うのか。ああ、あたしはここの主で安兵衛と申しますで、さあ座りなされ。うん、東京の布袋屋の倅から手紙を。うん…どう言う事や? 返事が要るかも知らんから、一八さんそこで待ってて下され、おい誰か、お茶を淹れておやんなされ…」

「えっ、お茶は結構ですけど、早く早く手紙を読んで下さい、ええとその、手紙を、三日で三十円が三十円の三日で…」

「何だえ、さっきから三日だ三十円だって、まあまあ落着きなされ、今、その手紙を読んでしまいますから、ひょっとすると返事が要るかも知れませぬで…ええ…ふん、ふん…ははあ…はは、ふはははは…いやいや、これは恐れ入った。あの放蕩者がこんな事を言って寄越すとは…ああ、あいつと親父の間に入った甲斐があったものや。お前さん、一八さんやったね、ああ、お前さんは知っとるかどうか判らんが、あの馬鹿野郎、清太郎はの、以前は大変な放蕩者での、親父さん、ああ、あたしの弟だが、大変に怒ってのう、勘当すると言うのを間に入って巧く収めたのがまあこのあたしだと言う訳でな。それから暫くの間音信不通だったのやが、お前さん、この手紙に何が書かれてるか知っていなさるか。何、中覗いたらいかんと釘を刺されて来た…偉い! 益々偉い! どうも清太郎のヤツにも人情が具わって来たようで、あたしも安心したえ。この手紙にはこう書いてある。この手紙を持参した者は以前私が世話していた芸人だが、兼ねてから一度で良い、遠国へ出掛けてみたい、遊山をしたいと言っていたので、あたしの所へ泊めてね、二日か三日もあちこち見物させてやって欲しいと言って寄越したのや。あたしはね、アイツは何時か人情を弁えた一廉の者になるやろうと思っておったのや。いや、幾ら情けを掛けると言っても、昔世話した芸人さんを、物見遊山に出向かせるなどは恐れ入った…だからね、清太郎に代わってあたしが恩返しをしてやろうまい。何日でもこの店に寝泊まりして、ゆっくり見物しておいでやれ。入費の方は心配せんでも…お前さんどうした? 何をさっきからそわそわして、里心でも付いたか? それとも雪隠なら向こうや」

「ヘエそうじゃ無えので、あと三日の内に自転車持って若旦那の所へ春先の燕の態で帰らないと…」

「いやだからの、そう慌てる事も無かろう? アイツの手紙にあるように、二日でも三日でも泊まって行きやれ」

「エエッですからですから、あと三日の内に帰らないと、あたくしゃ若旦那に三十円のご祝儀を頂けないてえ次第になってまして」

「何じゃ、さっきから三日だ三十円だって言ってたのはその事だったのえ? そんなら三日の内に戻らんと祝儀を失なかすのう」

「そんだけじゃ無いんです、遅れたらあたくしゃあ若旦那に三十円を出さないといけな…ああっ、そう言う事だったのか、うん、見事だね、これは敵ながら天晴てえヤツだね」

「どうしやった? 急に泣いたりして。ええ? うん。お前さんがアイツに三十円を払うと言うのか? それじゃアイツの手紙に書いておった、二日が三日でも泊めっしゃい言うのは、ああそうかそう言う訳だったのや。一八さん、お前さん嵌められたちゃ。手紙にそう書いておった。あたしに無理やりお前さんを引き留めさせて、お前さんを三日の内に東京へ帰れないように仕向けたのや。で、お前さんから三十円と言う大金を巻き上げようと言う腹だったのだろうの。うむ、飛んでもない! どうにも飛んでもないヤツじゃ。お前さんを騙す為にあたしの情けまで利用しよった。大体アイツは碌な者にならんと思っていたんじゃ本当は。誰ぞおらんか! 紙と硯を持って来やれ! 直ぐに東京の弟に手紙を書いて、あの馬鹿野郎を勘当させるのや!」

「ええ、大旦那に申しあげます」

「何や番頭さん!」

「大旦那のお怒りはごもっともですけど、東京の清太郎さんを勘当させるだけでは、ご気分が晴れますまい」

「そりゃあそうじゃ、そうすりゃ後々何かしらのしこりは残るえ」

「あたくしに考えがございますので、お耳を…こうなされませ」

「なるほど、そうするのか」

「まだ何も申しておりませぬ」

「道理で聞こえん訳や」

「掛け合いやってはいけませんえ…詰まり…」

「ふん、ふん…へえ…はは…ふはは…ふはははは…それは良えのう、番頭さん、お前さん見かけによらず頭が良い」

「見かけも良うございます」

「なるほどのう、良し早速そうしよう…これ一八さん、ああまだ泣いとるのかな。ほれしっかりおし。今あたしがの、お前さんに知恵を付けるよってから、その通りにしたら三十円のご祝儀が当たるようになるから。…番頭さん、紙と硯を、ああ、清太郎のダラスケにの、三十円はお店の金でなく、自分の懐から払うように書くのや…さ、書けた。一八さん、この返事とな、ここに三円と言う金がある。これは帰りの汽車賃や。これだけ持って早く帰りやれ…今何時じゃ? 六時? それはあかん、六時半の米原行があるやろ。汽車で行けば良く間に合うでの。それで清太郎から三十円巻き上げやれ」

「へえ…へえ…あたしゃあっ…吹けば飛ぶようなしがない幇間野だいこですけど…こんな鉋っ屑みてえなヤツでも生きてる限り、何度生まれ変わっても、旦那の大恩は忘れるもんじゃあございません。ありがとう存じます。ああ、有難山のとんびがらす、有難なすびの初夢だもさときたもんだ。旦那、これを機に、一八をご贔屓に願いますよ」

「しょわしない人やの、お前さん何を言うとるんや、ここは富山じゃ。お前さんあたしが呼ぶ度に東京から来る積りけえ?」

「ええ、自転車で来ますから、その都度三円下さい」

「馬鹿な事を言いなさるな。あ、そうや、その自転車やがの…何、自転車は旦那にあげます? 貰ったって仕方なかろう。お前さん、その自転車を持ち帰らんと三十円の祝儀に当たらんのやろ。ああ、思い出した。自転車はの、駅でそう言うて荷物で運んで貰うのやぞ、さあ早くしやれ、汽車が出るけえ」

「これで雲煙万里東京へ安着しやしたら、お借りした汽車賃の三円は早速お返し申しあげ…」

「返さんでも良え、それより早く、汽車が出よる」

「お手紙を差し上げたいんですが、あたしゃ芸人の癖して字が下手で…」

「いじくらしい人や、早く行かっしゃれ!」

「旦那、有難う存じまして、御恩は一生…ッヘヘ、有難い有難い蟻が鯛なら芋虫ゃ鯨てえヤツだよ。こんで東京へ帰った時の若旦那の顔が見てみたいね。あの空豆みてえな顔が一段とこうひしゃげてね、義太夫語りを絞殺したみたいな声でもってね『一八かい、お前足はあるんだろうね』ってヘヘッ。ああこんで三十円頂いたら何使おうかしら、紺の大島を誂えたいね、往来で、あああの人は芸人だよ、良い拵えをしてえる、なんて言われるけど、あたしの羽織はこの通りビリビリになっちゃって猫の産着だまるで。しっかし羽織着て上物の雪駄履いてよくまあこんな所まで自転車漕いで来れたもんだよ…」


帰りは汽車で楽して帰れるてんですからもう大喜び。こんで東京に着きゃあ若旦那から三十円も下しおかれるんですから頭ん中あ出来上がっちまいました。
無事富山の停車場から汽車に乗りまして、今は山中今は浜でございます。倶利伽羅峠越えて加賀の金沢を通って敦賀の入り江を見ながら柳ケ瀬の暗がりを抜けて江州米原から東海道に入って伊吹嶺の白く染まったのを眺めて尾張名古屋の金の鯱を目に入れたと思ったら浜名湖の脇を進んでお茶畑を見て富士川を渡ったと思ったらお富士さんの神々しい所を拝んでまっくろけのけで箱根を越えて横浜で汽船の煙に燻されて無事新橋に着いたのはてえと、若旦那との約束の期日の朝七時。往きも早かったが帰りも早かった。
一八は新橋に着きますと例の自転車を請けとって若旦那のお宅へ、とは申しましても一八も芸人の端くれです、一生懸命疲れた顔しまして、


「…若旦那…一八、ただ今民情視察より帰りましたっ…若旦那…」

「誰だい? え、たいこの一八っつあんが…あっ本当に一八っつあんだ。一八っつあんお帰り、良くご無事で」

「ああ、徳どん、ただ今帰りましたからね、そう言って若旦那にお取次ぎを、若旦那に」

「ちょいとここで待ってねえ、今取り次ぐから。どうも凄いねえ金の力てえもんは。あの羽織は何だい、雀のお宿みたいになってらあ…もし、若旦那、もし、ちょいとお起きになって下さいまし、若旦那…」

「ウウン…誰だいうるせえな、ええ? 今何時だと思ってるんだ、七時半ですう? 何をいってるんだい七時半ってったらね、堅気は皆寝てますっ」

「あんな事言ってら、堅気は皆四時から起きてらあ。…ええ、若旦那にお客人ですがね、ええ、たいこの一八さん、今お戻りで…ええですからちょいとお起きを」

「徳どんお前何を言ってるんだい、一八が帰って来たって? 帰って来る筈はありませんよ、飛騨の山中で山犬の餌食になって、今頃は三途河の婆さんを巧い事言って取り巻いてる頃だ」

「ああそうですか…じゃあ何かいあれは幽的かい、言われてみればこの世のモンじゃないように見えたがねえ…」

「…ええ、お取次ぎ願えましたか」

「確かに一八っつあんだねえ…ええナムアミダブナムアミダブ、どうぞ迷わず成仏…」

「あれ嫌だなあ徳どん、あたしゃ生きてますとも、両のあんよだってありましょこの通り、ほら、ほらね」

「あ、足はあるねえ。だけど若旦那そう言ってましたよ、お前さん山の中で遭難して、今頃は三途河の婆さんを取り巻いてる頃だって…オイオイ、一八っつぁん、駄目だよ勝手に上がっちゃ」

「何を言ってやんでえ日陰の梅の木の癖しやがって…ここだな、若旦那、あたしだよ、一八ですよ」

「ウオッ、一八かい? お前足はあるん…」

「徳どんと同じ事言ってやがら。あたしはこの通り、ご無事のご帰還ですよ」

「足はあるね…自転車はどうしたい?」

「勝手口に停めてあります」

「ああそう…え? 叔父貴から返信の手紙だって? お見せ。どれ…ははあ…」

「ええ、若旦那、一八の報酬お忘れで? 三十円のご祝儀に晴れて対面したいがばっかりに、痛む体を励ましつつ山中の暗がりを抜けて来たんで…さあそこまで聞いたら仕舞だ、きりきり三十円出しやがれえ」

「判った! 判ったあたしの負けだよ。そら約束のご祝儀だ。お取り」

「うへへー、どうも有難うござりまして。これでこの三十円はあたしのもんだ。幾ら若旦那でも貸してなんかやらないっ」

「誰もお前に金を借りようなんて思っちゃいないよ。しかしまあ何だねえ、良く五日で富山まで行って来れたもんだね。そうだ、もう一つ手紙を届けて欲しい、今度は備前の岡山の親類まで行っておいで、期限は七日、今度はご祝儀に四十五円出そう」

「若旦那の前ですけど、四十五円とはちと半端じゃありませんか?」

「うん、本当は五十円出してやりたいが、帰りの汽車賃を最初から引いてあるんだ」