鉄道耳袋2



証言者:chazさん(千葉県)

>それはまだ私が鉄道にあまり関心を抱かなかったころ。
母に連れられて親戚の家に行く途中,茶色い電車に乗り換える駅でそれを見たのです。
自分たちのいる混雑したホームとは対照的に人気の無いホームにたたずむそれは,ぬるっとした頭にらんらんと二つの目を光らせ,角ばったあごをぐっとつきだしてあたかも爬虫類がうずくまり獲物を狙ってでもいるように,不気味に,恐ろしげに見えたものでした。周囲にいるほかの車両とは違った,熱帯の蛇のように派手な塗色もまた,独特の近寄りがたさをかもし出していたように思います。



林珀砥彌(はやしはつみ 1887~1944)

明治中期から大正中期に掛けて活躍した洋画家で、後に画壇から永久追放された悲劇の画家であり、その作品を知る人は今では殆どいません。
当初、林は黒田清輝に師事し、やがて激しい個性-それは荒々しい筆致と強烈な陰影-によって当時の画壇に旋風を巻き起こしました。明治44年に描かれた「勝者」と言う作品(QXA美術館収蔵・未公開)が、林の前半期の代表作と言って良いでしょう。暗い背景に浮かび上がった相撲取りは当時の西の大関富士川で、東の横綱昇竜に競り勝った直後の鬼気迫る表情と全身から発する朦気がえも言われぬ凄惨さを感じさせます。

大正5年、最愛の妻を流行病で失った後、林の画風は大きく変化します。柔らかな色合いと繊細な陰影で、主に都会地の街角の風景を描き出しました。それまでの憤怒と激情から産み出されたような作品と全く相容れない上品な、そして瑞々しい作品群を前にして、当時の画壇の人々は首を捻るばかりでした。

これら後半期の作品群には総じて二つの共通項があります。

絵の中には大勢の人々が活写され、彼らは絵の中で生きる歓喜を心から享受しているかに見えます。しかしその中に必ず一人、呆然為す所を知らないと言う風情の人物が描かれています。
「中旗川町の賑」と言う作品(許町橋美術館収蔵・未公開)では、院電(現在の国電)旗川駅前を描いていますが、嬉しげに行き交う人々の中で左端の子守りの少女だけが天を仰いで悲しげな表情をしている事に気が付きます。
また「府下富士塚練兵場」(サンペドロ市収蔵・未公開)では、狭い通りを泥まみれになった兵士達が楽しそうに兵舎へ帰還する様を描いています。けれども画面中央、騎乗の指揮官だけは辛そうに顔を歪めて右方を眺めています。これが共通項の一です。

そしてもう一つ、重大な共通項として、ここに描かれている全ての場所は、東京らしく見えますが、全く実在しない架空の町であると言う事です。

大体画家が空想上の何かを描く事自体は不審な事でも何でもありません、が当時画壇の指導的立場にあった比根喜拾(ひのねきじゅう)は、どこにも存在しないこれらの街角の絵を酷く嫌い、「在りもしない町を写実的に描くとは怪しからん。想像の町を描くなら『オトギノオシロ』でも描いておれば良いのだ」と斬り捨て、比根に追従する他の画家達がそれに同調し、林は林で一切弁明も反論もしなかった為、哀れなるかな彼は画壇から放逐される事となってしまったのです。大正11年の事でありました。



それはさて置き、chazさんが子供の頃、山手線の絹ヶ谷駅で見かけた謎の電車とは、これではありませんでしょうか。


私は鉄道の事はとんと知らないのですが、そんな私でも「こだま型電車」位は知っています。確か新幹線が岡山まで延びた頃に、その改良型が登場して、「こだま型」と一緒に遥々新潟や秋田等へ走っておったのだそうです。それすらも、新幹線に追われて何処かへ都落ちしたとかで、そう言えばこの所さっぱり見掛けませんね。


唯一つ画家として思うのは、特急電車の色と言う物は実に良く考えられた色だと言う事です。常に蒼海に臨み恒に翠野を望む日本の景観に最も良く映える色であるなと思うのです。