相模軌道運輸の記憶-オット君御難-





相模軌道運輸 馬匹「斑号」
社長鍵和田氏の飼い犬「駄犬」の言う事しか聞かなかった。

古い話で済まねぇけんど、ちっとだけ昔話にお付合い下さいましよ。
へぇ随分前、明治の終わり頃から昭和の始めまで、あの、平塚の八幡様の前から、あっちこっちへ馬車鉄道が走ってたのは知ってらんの。あぁそうかね。
まぁ大雑把に言やぁ、相模川の船運組合が動かしてた相央馬車軌道だな、これは平塚から厚木へ、今の129号の上を走ってらいただよ。
もう一つは鍵和田商会せって、後には相模軌道運輸せぇ、尤もらしい名前に変えらいたけんど、俺らぁ皆、鍵和田鍵和田せってただ。これが平塚から伊勢原町まで、豊田やら大竹を回って走ってた。
で、明治四十四年に豊田本郷から厚木まで鍵和田が線路を延ばしたから話がややこしくなっちまいただよ。

何しろ平塚から厚木は儲かるべぇ。最初の内は相央に分があったけんどもよ、この鍵和田の親爺てぇのが負けず嫌いでねぇ、相央に負けるな、時間を短くするんだせって、それまでの馬牽きを止めにしちまって経済なガスリン車を入れようせぇ話が出ただ。
鍵和田の身内に鉱山の技師がいらえてね、ガスリンは経費が嵩むから、安い重油を焚いて走る、オットーサイクルせぇ機関車がある、それを使えば経済だんべぇせった。じゃあそうしべぇかって、それが、大正四年だったかな。初めてオットー機関車が入っただよ。えぇ、神奈川県で始めてだせぇから皆珍しくて用事も無ぇだせぇのに乗ったもんだよ。
へぇその頃は世界大戦が始まってらいたから、ドイツから新規で持込みが出来ねぇ。幸い横浜の南出商会せぇ輸入会社に現物があるせって、取敢えずその一台で使い始めただ。


相模軌道運輸 №1「夫号」(Deutz 1912)

オットせったって、誰もその縁起を知りゃしねぇんで、ある人は、前から見りゃオットセイみてぇだからオットだんべぇせったり、ある人は、つんのめって走る様が「オットト」せってる見てぇだせったりしたが、あれは中にオットーサイクルエンジンが入ってんだなんて誰も知らなかったんだね。
そんでもへぇ、誰でもが「オット」と呼んでらいたねぇ。
成績が良いもんで、いずれ全部をオット牽きにするべぇせってらいたね、鍵和田は。

そうこうする内に、大正七年に欧州大戦が終わったんで、ドイツから新規にサイクルエンジン機関車を入れんだぁせって、例の南出商会に聞いたら、何でもえらく安かったんだってね。値段がよ。
世界大戦が終わって見りゃぁ、負けたドイツはとんでもない賠償金を払う羽目になっちまいた。だから国中にある物で売り物になるモンは、片っ端から売っちまいただから安いのも無理はねぇやね。

さぁて話はこっからだ。



最初に入れたオットは、「ドイッツ」せぇ会社が作らいた。
でもまぁ、オットーサイクルを積んでらんだから「オット号」せぇ渾名で良かった。
次に入ったオットは、ハノーバーの「アルフレート・ツィンメルマン」せぇ会社がこせぇたんだ。横浜にストックがあらいたんだってよ。
で、このツィンメルマンを南出商会の担当が読み違えて、「ツンマー」せったもんだから、受取りに行かいた鍵和田は「ハハァ妻号か」。そんで、一号機の「夫号」と二号機の「妻号」で夫婦機関車の道行みてぇなもんを想い付いたんだろうね。会社の中ではあれを「夫号」「妻号」せって呼ぶようになっただよ。


相模軌道運輸 №2「妻号」(Alfret Zimmerman 1912)

そりゃ話題になったさ。当時は今ほどニュースが無かったから、こんな話題でも新聞は飛び付いて来る。相州相模軌道夫婦機関車道行、なんてちょっとオツな見出しでよ。
あの当時、東大竹に急な上り坂があってよ、夫号が引っ張るね、妻号がそれを後押しだ。当時なら修身の教科書にでも載りそうな「良い話」だった。夫婦はすべからく助け合って、相睦まじくみてぇなよ。


沿線で祭りでもありゃぁさ、夫号が前牽きで、妻号が後押しで、間にトロッコを挟んで、トロッコの上に浄瑠璃の舞台が設えてあってなぁ、そこで「お染久松」とかを演って見せて歩かいたり。あぁ、皆見に行ったさね。
よくあんなえれんな発想が出たもんだなぁせって、鍵和田の株は上がったもんだよ。

いやいや何、「良い話」で終わる訳ゃ無かんべぇ。

話がぐっちゃぐちゃになんのはこっからだ。



あぁ、確か大正八年頃だ。

「夫号」と「妻号」で仲睦まじくやってらえる内ゃ良かったんだよ。鍵和田は「三号機関車」が欲しくなった。せぇから鍵和田はまた横浜行きだぁよ。南出商会もよしゃぁ良いのに、欧州戦線で使ってた、何だか飯炊き釜を伏せた見てぇな「装甲機関車」を押し付けただ。
この機関車は、ベルリンの「ワルター ウント シュトゥンメ」せぇ会社がこさいたんでさ、判んべぇ。付いた渾名が「姑号」だとよ!

幾ら二号機が「ツンマー社」製で「妻号」だせぇから、「シュトゥンメ社」製で「姑号」は無かんべぇせって皆面白がってたんだけんどよ、まぁ良く見りゃぁ外見は土色で、婆様が良く着てらえるドテラに見えねぇ事も無ぇし、丸っこい形は炬燵で背中丸めてる婆様そのものじゃ無ぇかってさ、皆大笑いしてたっけよ。エンジンの音はくぐもってぇて丸で婆様が鼻水すすってらんみてぇだせってなぁ、へッへッへ。


相模軌道運輸 №3「姑号」(Walter & Schtumme 1915)

さぁてそうなって来ると不思議な事もあるもんで、東大竹の上り坂でよ、例えば、何だへぇ、「妻号」が牽いて「姑号」が後押しするとすんべぇ、そうすると必ず途中でどっちかが故障するだ。これは何度やっても同じ事でよ、流石に妻と姑じゃぁ反りが合わ無ぇのかよぉせって、皆で不思議がったもんだよ。
で又面白ぇなぁ、これまで一度も故障しなかった「医者要らず」の一号機「夫号」が急に故障し始めただぁよ。
まぁ、本職の整備屋に言わせりゃぁ何の事ぁ無ぇ、県道の埃を浴びながら走ってらいるから、ギヤが擦り減っちまったせってたけんどもよ、知ら無ぇ奴らぁそうは思わ無ぇやなぁ。
妻と姑に挟み撃ちに遭えば、大抵の夫は塩垂れるもんだせって、へぇ人間様もオット機関車もそう変ったもんで無ぇなぁせって納得してたなぁ。

何、こんで終わる話で無ぇ。まだ続きがあんだ。



一号機「夫号」が腑抜けになっちまいたんで、鍵和田はこんだ四号機を買うだせって、また財布に金貨突っ込まいて横浜に行かいたってよ。南出商会もしたたかモンで、そろそろアメリカの使い良いガスリン機関車が巾を利かせて来たから、手間の掛かるオットー機関車のストックはこの際鍵和田の親爺に全部売っちめぇせって、わざわざガスリン機関車の型帳を隠しちまっただと。
まぁ、何だかんだあって四号機を買ったのは良いけんどよ、次の機関車の渾名は何だと思う?
あろう事か四号機は、ベルリンの「ニーガウ・ベルリナー」せぇ名前の鉄工場でこさえただ。
判るか? 判るか? 「ニガウ」詰まり「二号」せぇ事だ!アッハッハ…


相模軌道運輸 №5「二号さん」(Niegau Berliner 1920)

わざわざご丁寧に「さん」まで付けて呼んでたなぁ。俺らぁ。流石に会社の方じゃぁ風教上宜しくないせって、「四」を抜かした「五号機」って呼んでらいたけんどな。

尤もこの「二号さん」は大した美形でなぁ、「妻号」が野暮な緑色だけだったせぇのに、こっちのは赤い縁取りがしてあって、へぇ丸い窓の周りにも赤く紅が差してあっただよ。足もそうだ。それまでの「夫号」も「妻号」も、蒸気機関車見てぇな連結棒が車輪にかまさいてて、余り器用な見てくれじゃぁ無かっただよ。
だけんどもそこがそれ、二号さんだぁな。連結棒を止してチェーンで動くように工夫さいてて、裾から赤く塗られた車輪がチラチラ覗かんだよ。俺ぁ人間だから人間の女が好きだけんどよ、「夫号」はそれ、オット機関車だから、美形のオット機関車がさぞかし好きだんべぇなぁ。ヒッヒッヒ…。
俺ぁ野良で百姓仕事してんべぇ、すっとそこへ軌道の汽車が来るねぇ、俺ぁ隣の畑で野良稼ぎしてる仙松つぁんやらに声掛けるだ、
「やーい、仙松ぅ、今日は妻と二号だぞぉ」せっとよ、仙松のヤツも手を止めて「今日もへぇさぞかし大竹の坂で故障しらんべぇ」せって二人で何時も笑い転げてただよ。


不思議な事に「二号さん」が動き出してからと言うもの「夫号」は急に元気になっただ。整備のヤツが何も修理していねぇせぇのに、急に元通りに動くようになったから、へぇこりゃぁ本当に人間そのものだなぁせって、皆で不思議がったもんだよ。
その代わりだか何だか知らねぇけんど、こんだ「妻号」が参っちゃっただ。
そりゃぁそうだんべぇよ。夫は二号に首っ丈となりゃぁ、へぇ妻は悋気で居ても立ってもいらいめぇに。なぁ。へッへッへ。

俺の家の近くに「オット機関車」の家もあっただけんどよ、一つ屋根の下に「夫号」「妻号」「姑号」に「二号さん」まで暮らしてるとなりゃぁ、これは一大事だなぁ、ハッハッハ。一体あの屋根の下でどんな家庭争議があったやらせって、皆で寄っちゃぁ話の種にしてただよ。
もう七十年くれぇ前の話だなぁ。



その後かい。

その後は知っての通りよ、厚木や伊勢原を小田急線が通る、その上、平塚から伊勢原には別に相陽電車も走る事になったから、何時までも道路端をノソノソ走るオット機関車でもなかんべぇせって、相央も鍵和田も軌道を止しにしてバスを走らせるようになっただ。

…オットはどうなったかなぁ。
「夫号」だけは後に瀬戸内海のどっかの島で使われてたせって聞いたけんどなぁ、後はなぁ、へぇちょっと判んねぇなぁ…。