国鉄所管の特殊狭軌線の内、電化されていたのは中国地方の嶺積(りょうせき)軽便線の扶前沓島-積川のみであった。
この線は元々山陽線嶺岡-積川間を私鉄の嶺積鉄道として開業し、昭和3年には全線を電化。昭和5年に国鉄に買収され、更に戦時中の昭和18年、起点の嶺岡-扶前沓島間を改軌し、全国に余り例を見ない「電化軽便鉄道→非電化標準軌鉄道」への改築をしたのである。
扶前沓島に、当時東洋一と謳われた大規模なアルミの精錬場があり、通車の便を良くする為に取られた措置であった。
戦後かなり遅くまでこの状態で取り残されていたが、都市圏に近く工場への通勤者が増大した為、新系列の通勤形電車の導入を迫られた国鉄当局が満を持して昭和40年に登場させたのが、このヶクモハ90系である。
最上段は初号車で、101系の流れを汲む近代的なフォルムでありながら他の旧式車と合わせる意味でブドウ色2号を身に纏っていたが、昭和43年頃から、二段目に見られるように黄色5号に変更された。
国鉄部内では90番代は試作車の意味を持つ為、この系列も量産型が登場した時点で「ヶ100系」を名乗る筈であった。
しかし時の石井国鉄総裁は「間も無く軽便線は無くなると言うのに、今更新系列の番号でもなかろう」と発言。かくして軽便線に咲いた最後の仇花、ヶクモハ90系は昭和57年の終焉まで「試作車」のままであった訳だ。
2段目は第2編成以降の量産車で、初号車が雨樋を隠して張上げ屋根としていたのに対し、こちらは通常の雨樋で些かスマートさには欠けるものがあった。
そのヶ90系は昭和54年から順次冷房化が進められた(3段目)。そして全編成の冷房化が完了する昭和56年から1年足らずで嶺積軽便線は改軌され、キハ40系が行く非電化の標準軌線となったのである。
冷改化されたヶ90系は改軌後も引く手数多で、その殆どは当時軽便線を多数擁していた近鉄に渡って、近代化に貢献を果たしたのである。最下段は近鉄に譲渡されたヶ90系で、同社では300型を名乗っていた。