狭軌軽便線のスハ42



国鉄狭軌軽便線で使用された客車は千差万別。各地の私鉄軽便線が買収されてから昭和10年代にかけての間、殆どの線では雑多な買収客車が使用されていた。
こうした軽便線が国有化された当初、昭和10年代には客車の標準設計化が企画された。これは省標準の設計図だけが存在し、製作に当っては実際に使用する路線の輸送実態や、この頃までマチマチであった建築限界を加味して省地方工場や民間工場で製造すると言う方法を採った。
これがヶコハ30系(旧称ヶコハ3300系)である。



形 式 定 員
(座席)
自重(t) 最大寸法(mm)
長×幅×高
製造年 製造所
ヶコロネロ3130 座席10
寝台12
12.9 13,630×2,100×3,200 1938 苗穂工場
ヶコハニ3410 座席28
荷重2.5t
11.7 13,910×2,150×3,200 1937 各工場

こうしたユーザ・カスタマイズ工法で製造されたヶコハ30系は、見た目は同じでも微妙に寸法や内装が異なったが、大雑把に分類すると狭幅型(九州に多い)と広幅型(北海道の勝北軽便線の寸法をスタンダードとする車幅2100ミリのグループ)に分けられる。

上のイラストはヶコハ30系の中の変り種。上は勝北軽便線の夜行快速に連結された、ヶコロネロ3130。寝台は片側上下二段でプルマンでは無い為昼間寝台の畳み込みは出来ない。寝台の反対側は寝台利用者の為のデイルームである。
後に寝台部分を3等客室に改造され、ヶコロハ3950に、更に全室3等に格下げされてヶコハ45 200番台に編入されている。
下は荷物合造車ヶコハニ33(旧3410)を組み入れた千谷軽便線の列車。同線改軌まで新聞輸送に使用された。


戦後、鉄道旅客輸送の復興が優先課題となった当時の国鉄では、製造能力に余力が付き始めた昭和25年から軽便線用標準客車の作成に当った。



ヶDD11が牽引する軽便線末期の千谷軽便線列車。先頭と最後尾、ヶコハフ40。3両目、ヶコハ41。2両目は後述するヶコハ45(0番台)。

形 式 定 員
(座席)
自重(t) 最大寸法(mm)
長×幅×高
製造年 製造所
ヶコハ41 64(56) 10.5 13,910×2,150×3,200 1950 各工場
ヶコハフ40 60(54) 10.9 13,910×2,150×3,200 1950 各工場

ヶコハ41系は当時標準軌線の最新形式であったスハ42系をモデルとして設計された。明るい広窓の車体は乗客から好評を以って迎えられたが、資材の払底は如何ともし難く、中桟の入った窓、垂木丸出しの天井、薄暗い40燭光の室内灯など、当時の厳しい状況が伺われる造りとなっていた。
後に整備を行い名実共に「軽便線標準客車」となり遂せた同系は、当初ヶC10やヶC50等のSLに牽引されていたが、別項のヶキハ10系登場後は平坦線における気動車のトレーラーとして使用。昭和34年にヶDD10が登場すると再び機関車牽引に戻って、朝夕のラッシュ時に輸送力を発揮した。
昭和40年度以降、ヶコハ40系の一部は車体の難燃化、屋根の軽合金化、アルミサッシ化等の延命化工事を施され、ヶコハ45形式を名乗った。この形式はヶコハ41系からの改造に限らず、その時点で改造を受けた全ての軽便線客車が編入された為、同じ形式でも様々な形態があって調査は困難となっている。
これらの近代化工事車は全て青15号に塗装され、末期の軽便線客車列車には欠かせない存在であった。



茶色塗装時代のヶDD10が牽引する千谷軽便線列車。先述のヶコロネロ3130の3等格下げ、ヶコハ45 200番台が茶色のまま挟まっている。