柳町遊郭奇譚「番太のインドさん」
その頃、と言えば明治の終わりであったか大正の始めであったか。
不夜城「柳町遊郭」の周囲は未だ田圃で、それだけにその不夜城振りがより強調されていたと思う。殊に田植えの前はそうであった。客人は皆俥や、その頃開業した市電に乗って遊びに繰り出していた。
その時代、柳町総門の番太郎は、背が高く顔の彫が深く、色黒で頬髯を蓄えて、何時も白いターバンを頭に巻き、胸に四個、イギリスの殊功勲章を佩用した男だった。彼は抜身のサーベルを肩にピシリと当て、雨の晩も雪の晩も微動だにせず往来する遊客を監視していた。
最初の内は、彼を毛嫌いする客が多かったが、やがて数年もすると親しみを込めて「インドさん」「天竺さん」と呼ぶ者が現れ始めた。中には無口な彼の前で、遊郭での愚痴や自慢話をして行く者も出て来て、それは恰も「基督教会で告悔を聴く聖職者」の様に見えた。
「ねェねェ、インドさん、聞いて下さいましよ。あたしゃあお店の金をちょろまかして、三日三晩居続けをしちまったんだが、さぞ親父に怒られやしまいか、勘当でもされやしまいか、もう心配でねえ。もし、インドさん、あたしの命が無事だったら、また遊びに来ますからねえ、それまでどうか御達者でねえ」
「天竺さん、俺ぁもう金輪際ここへは来ねえよ。来るもんかい畜生、昨夜登楼った家は酷いよ、ウン酷い。こねえだ俺ぁ馴染の妓から付文貰ったんで来て見りゃ、肘でこう、ドーンよ。朝までだあれも来やしない。敵娼だけじゃねえや、牛太郎まで来やしねえ。ええ、酷えもんだろ。天竺さん、お前さんも玄人妓にゃ気を付けなきゃいけねえぜ、あばよ」
客人が彼の許でどんな事を告悔しようと、彼は無表情で「ナマステ!」と返事をするだけだった。
但し、地元の老舗、「丸鳥百貨店」の手代や丁稚が柳町総門の前を通り掛かる時、彼らは番太郎の「インドさん」に向かって「番頭さん」とか「徳兵衛どん」と親しげに呼び掛ける、その時だけは彼の眼に明らかな感情が迸り、うっすらと涙を浮かべるのだ。
当時旧制南高の学生であった僕は、「インドさん」が誰で、どんな事情あって番太郎をしていたのか、番太郎に落ち着くまでの間、世界の何処で「大英帝国の栄光の為に」戦って来たのか、全く知らない。ただその頃、そう言う男が遊里で門番をしていたと言う事だけ、良く覚えているのである。
「インドさん」は昭和の初め頃まで総門に立っていたが、何時しかその姿を見なくなってしまった。