横浜聞き書き・ポーツマス副全権のその後



ロシア革命後の事だが、ポーツマス条約のロシア側副全権ロマン・ローゼンは大正7年、かつての論敵、日本側全権小村寿太郎の遺族の勧めで日本へ亡命して来た。
彼はなけなしの財産を叩いて横浜、山下町の一角に住居兼用店舗を借り、ロシアや欧州の小物・雑貨を商う商店を始めた。
横浜と言う地の利もあって店は繁盛し、大正9年には大勢の使用人を抱え、幾つかの支店を開くまでになった。

大正12年の関東大震災で彼は店舗も商品も情熱も、その全てを失った。僅かに平沼町の支店は被災を免れたので彼はそこへ引き移り、一人で細々と店を続けた。
半ば焼け落ちた店の奥にカーテンを下げてベッドを置き、焼け残った雑貨を売って口を凌いだ。壁にはロシア皇帝ニコライ二世、全権ウィッテ、そして小村寿太郎のイコンが掲げられていた。
憔悴し切り、静かな死を望み始めたローゼン。かつてポーツマスで日本側全権と口舌で切り結んだその口から出て来る言葉は、今や殆ど無かった。

「可哀相な外国のお爺さん」の噂は震災後の横浜に広まった。赤い鳥運動の鈴木三重吉は「可哀相な外国のお爺さん」の正体がポーツマス条約のロシア副全権、ローゼンその人である事を知ると大いに驚き、「昨日の敵は今日の友」と、赤十字社を通して多額の救恤金を寄贈する等して支援を続けた。
今や彼に同情する者は朝野に満ちている。鈴木は寄付ばかりではなく、ローゼンの許を訪ねては様々な人士を紹介した。その中の一人、神中鉄道立ち上げに奔走中であった小島政五郎は、平沼の店舗の立地と商品の価値を正しく判断し、金2500円でその権利一切を購入したい旨ローゼンに申し出た。
「貴方の功績を讃えその名を忘れ去られぬようにする為、店名に貴方の名前を冠し、必ずやかつてのような大商いが出来るようにする」と確約するとローゼンは大いに喜び、これで心配事が無くなった。安心して神の御許へ行ける、と涙を流した。
ローゼンは大正14年12月24日、芝の病院の一室で息を引き取った。最後の言葉は「コムラさん、ウィッテ閣下…陛下、謹んでお引き受けします」だったと記録されている。

店舗を引き継いだ神中鉄道は、やがて紆余曲折を経て相模鉄道となり、「相鉄ローゼン」は今日も盛業中である。