耳を持ち去られた保安官のこと







バージニア州ノッツバーンは静かな町だった。
谷合いに拓かれた僅かな耕地の他は、街道辻に多少家が建て込んでいるだけで、人々は農業と林業で生計を立てていた。

町の保安官、ラリー・カワードは40歳を過ぎた男盛り。類稀れな正義漢で、1868年には凶賊サンダンスキッドの子分、アラバマ・ジョスを一人で捕えるなど周辺の悪党を震え上がらせる一方、善良な人々には優しく町の誰からも好かれていた。
ノッツバーンの顔役、町長のオバノン、医師のミード、聖ピーターズ教会の牧師ナサニエル・カッシングと親しく、協力して町の平和を保っていた。

彼は拳銃や捕縛の腕もさることながら、バンジョーの名手としても名高かった。その上レパートリーは無尽蔵で、町の誰それから頼まれれば二つ返事で何でも弾きこなした。当時台頭しつつあったラグタイムや、後にブルーグラスとして知られるようになったカントリーソング、メキシコのマリアッチから賛美歌からインディアンの闘いの歌まで何でもござれであった。娯楽が少なかった当時の田舎町では、彼は町の治安と共に市民の娯楽まで一手に引き受けていたのである。市が立つ日には周囲20マイルから大勢の農民がノッツバーンにやって来るが、彼らは市場での取引きや滅多に口に出来ないご馳走の外に、町のマーケット広場でバンジョーを爪弾くカワード保安官の歌もまた目当てにしていたのである。



1870年10月。

温暖なバージニア一帯でもこの季節になると木々は色づき、朝晩はストーブがないと寒くてならない。秋雨の日が続き、人々は冬の備えを始めている頃だった。

ある小雨の降り止まない晩、保安官事務所の壁掛け時計が10時を打った頃だった。ストーブの前でカワードは一人「オールド・ブラック・ジョー」を弾いていた。ふと彼は扉の外に人の気配を感じた。テーブルにバンジョーを置くと扉の外に優しく声を掛けた。


「誰かいるのかい、遠慮はいらない、さあ、お入り」


暫く動きはなかった。もう一度声を掛けると、ようやく扉を開けて一人の男が入って来た。その男は全身にボロを纏い、靴は履いておらず、顔中ひげだらけのやせ細った体をしていた。顔にはもうずっと昔から悲しみが凍って貼り付いたような表情が浮かんでいた。

カワードはこうした人々の扱いには慣れていた。恐らく職にあぶれ、住む場所もなく、郊外の森林に住み着いてでもいるのだろう。こうした人をそのままにしておくとやがて悪事に手を染めるかも知れない。これまでにも救いを求めて来た浮浪者を町の人々に紹介し、職を与えて定住させたりもしていた。このような人を救う事は巡り巡って町の治安維持にもなるのだ。


「ひどい格好だな、寒いだろう、さあ火のそばに掛けな。コーヒーでも飲むか」


カワードはストーブで温まったポットから真鍮のカップにコーヒーを注ぎ、男に渡してやった。
男は木箱に座るとカップを押し頂くようにして暫く身動きしなかったが、やがて小刻みに震え出した。泣いているのだ。


「気持ちが落ち着いたらで良いから話してくれないか。君はどこに住んでいて、何の用事でここに来たんだね」

「…保安官の旦那、あたくしはこれまで誰様からでもこんなに優しくして頂いた事はありませんでした。この温かいコーヒーは心にまで染みます。感謝します」


男はハリー・フォーブスと名乗り、カワードの予想通り北の町外れにあるオールドシルバニアと言う森林から来たと言う。


「この前を通り掛かると、懐かしい歌が聞こえてきましたから、悪いとは思いながら軒下で聞かせて頂いていたのでございます。もし、保安官の旦那、お邪魔でありませんでしたらもう少し聞かせて貰えないものでしょうか」


得体の知れない男だったが悪人ではなさそうだった。


「ああ、もちろん構わないとも。そうだ、何か聞きたい曲はあるか。私が知ってる歌だったらそれを歌ってあげよう」

「そうですか、では…では『ディキシー』を聞かせて下さいまし、あたくしは久しくあの曲を聞いておりません。あの歌を聞くと少しだけ元気が湧いて来るのでございます」


「ディキシー」とはほんの数年前に滅びたアメリカ連合国の国民歌であった。南部連合なき今、その歌を大っぴらに歌う事は禁じられていないまでもやはり人目を憚る事には違いなかった。しかしカワードはこの人の善さそうな男の望みを多少なりとも叶えてやりたいと思った。


南部の不満は渦巻き 南部に星条旗が翻る
武装せよ 武装せよ 南部人よ 武装せよ

辛抱強く抗い奴らを追い出せ 呪われた同盟に刻み付けろ
武装せよ 武装せよ 南部人よ 武装せよ

万歳 万歳 南軍の旗は前進する

この南部の地で 我らは立ち上がり
南部の為に生き、そして死ぬ

武装せよ 武装せよ 南部に平和を!
武装せよ 武装せよ 南部に平和を!


「保安官の旦那、ありがとうございました。少しだけ元気が出て来た気がします。では仲間の許へ帰ります。お邪魔しました」


顔を上げた男の眉根は、心なしか明るみを帯びていた。表情に染み付いたような悲しさは、少しだけ溶けたように見え、カワードは心が軽くなるのを覚えた。そして帰ろうとする男をカワードは呼び止めた。


「ハリー、待ってくれ。君はこのぬかるみの中を裸足で帰るのか。私のお古で良ければだが、これを履いて行くと良い。雨外套も持って行きなさい」


男は、必ず返しに来るからと言うのをカワードは断ったが、


「保安官の旦那、あなたのバンジョーをまた聞きに伺ってもよろしいですか、その時にお返ししましょうから」


と言う。それはカワードも望むところだったので、再会の約束をして別れた。



その翌週、長雨が上がって良く晴れた晩に、その男はまた現れた。


「保安官の旦那。森に帰ってあなたの話をしたら、仲間が皆あなたの歌を聴きたいと申します。そこでご迷惑かも知れませんが、皆を連れて参りましたから、また何か聴かせて貰えませんでしょうか」


カワードが保安官事務所の扉から顔を出すと、前の広場には総勢三十人位の、同じようにボロを纏った男たちが、塀に寄り掛かったりてんでに座ったりしていた。一様に酷い格好で髭は伸び放題だった。
カワードは少し考えた。これだけの人数だが、もしかしたら慈善家でもある治安判事に相談すれば、この連中を全員真っ当な生活に立ち戻らせる事が出来るかも知れない。彼は使命感からそう思ったのだが、その一方でハリーと言う最初の男の印象から彼らへの同情心が湧いて来ていた事にも気付いていた。

カワードは快諾すると晴れている事でもあり、バンジョーを持って広場に出た。そして樽に腰を下ろすと「ボニー・ブルーフラッグ」を弾き始めた。


万歳 万歳 南部の自主に
万歳 愛おしい一つ星の旗

我らはこの地に 生まれし兄弟
正直な我らの 財産の為に戦う

我らの権利 一たび侵されれば
全ての南部は 抗議の声を上げる

万歳 愛おしい一つ星の旗

万歳 万歳 南部の自主に
万歳 愛おしい一つ星の旗


最初は抒情的に、やがて熱狂的に。カワードの変幻自在の旋律に聴衆の男たちは皆立ち上がり、威儀を正して聞き入っている。やがて遠くの梢頭を擦って吹き抜ける、木枯らしのような響きが起こった。それが男たちの歌声だと知るには少し時間を要した。

曲が終わると、一同の中では多少マシな服装をしているが、他と同じく悲壮さを張り付けたかのような顔をした長身の男が一歩進み出て頭を下げた。

レスリー・パービュランスと名乗ったその男が、どうやら一同のリーダーらしかった。


「保安官殿、我々の意を汲んでくれた事に感謝する。またお邪魔してもよろしいだろうか」

「ああ、もちろんだとも。その時は皆が飲めるように、コーヒーを沢山沸かしておこうよ」


カワードはこの男たちに同情を越えた好意を抱いていた。物静かで真面目そうであり、やがてこの町に定着したならば良き仲間になれそうな人々だと思った。



11月に入ると、男たちは毎週から5日ごと、やがて3日ごとに保安官事務所を訪れるようになった。

そして12月初旬の事だった。

朝一番を待ちかねたかのように、町長、ミード医師、そしてカワードの親友、牧師館のナサニエル牧師が保安官事務所を訪れた。
町長が忙しない口調で口火を切った。


「保安官もうわしらは黙ってはおれないミード先生ともナサニエル牧師とも相談してやって来たんだ一体君は町の人の噂を聞いた事があるのかね町の人は皆心配しているああそうだとももちろん君の事をだよよってもってそのだな」

「医師として君に訊くのだが、君はこのひと月で急に痩せてしまった。その事に君は気付いていないのかね。この所食欲はあるのかね、熱は出ていないかね、心臓が苦しかったり眩暈がしたりやしないかね」

「ローレンスいやラリーよ、今日は聖職者としてではなく、友人として言わせて貰うが、この所の君の妙な行動は一体どうした事だ。町の口さがない連中は君の正気を疑ってさえいるんだぞ」

「皆さん、一体どうしたと言うんです。先生、私は食欲もあるし咳も出ません。健康そのものです。そしてネイサン、君の言う『正気を疑』われているとは一体全体何の事だ。何か私が間違った事をしでかしたか」

「ラリー、この間の日曜礼拝の後で鍛冶屋のキングスレーさんが僕に耳打ちして来た。保安官が事務所の前の広場で南軍の軍歌を歌っていると言う、そしてその話はマファロー夫人からも酒屋のミック君からも聞いた。真夜中に大声で『ディキシー』を歌っているとすれば、正気を疑われても仕方あるまい」

「そうか、その事かネイサン。皆さん聞いて下さい。実は10月以来こんな事があって、彼らと親しくなってから皆さんに紹介しようと思っていました。彼らは恐らく失業した元南軍の兵士たちでしょう。長年悪漢を見て来た私には分かります。彼らは善良な人々です。その彼らを救ってやる事で、町の治安に貢献したいと思うんです」


そこでカワードは言葉を少し切って、


「ですから皆さん、彼らは…」

「ラリー、落ち着いて聞いてくれ。君はたった一人、深夜の保安官事務所の前で歌っていたんだ。君の前には誰もいなかったんだ」

「…何を…誰も…何だって…いや、しかし私は確かに…」

「確かにそこには誰もいなかった。話の最初に僕が聖職者としてでなく友人として、と断ったのはその事だ。君が相手にしている連中は間違いなく、死んだ南軍の兵士の亡霊だよ」

「ナサニエル牧師、神に仕える君の言葉とも思えんが、確かにそうかね」

「確かに、とまでは言えません。しかし神に仕えていますと、どう言う訳か色々と不思議の出来事に遭うものです。神に召され損なった哀れな魂が、この世に未練を抱いたまま救いを求めて彷徨っているのかも知れません。僕の為すべき事はそうした哀れな魂に呼び掛け、神の御許に至る正しき道を指し示すのみです。ラリー、このままでは君の肉体は痩せ衰え、やがて死んでしまうぞ。彼らの仲間にされてしまうぞ。そこには救いも光明もない、冷たい風が骸を撫でて通るだけの世界だぞ。止めるんだ。次にその者たちがやって来たら」

「牧師、何か手があるのかね」

「それは分かりません。分かりませんが、出来る限りの事はしてラリーを助けてやる積りです。ラリー、良く聞くんだ。今夜我々はまたここに来る。物陰から様子を伺って、彼らの正体を見極めてやろう。そうでないと戦いようがないんだ」

「どうしたね、保安官」

「私にはまだ信じられない。彼らが皆この世の者ではないなんて。そんな事が本当にあるんだろうか」

「ラリー、心配するな。僕たちがついている。僕たちが君の命をむざと連れ去らせたりはしない、そうですよね町長、先生」

「ふむ、病人なら私の仕事だが、死んだ者ではなあ、ナサニエル牧師、ここはあなたが指揮官ですよ」


―その夜、柱時計が10時を打った頃、事務室の隣の部屋で三人が聞き耳を立てていると、唐突にひどく掠れた声が聞こえて来た。


「保安官の旦那、また皆で参りましたが、今日の所は帰らせて頂きます。どうやら私たちを敵視しているお方が三人ばかり、隣の部屋に潜んでいますね」

「保安官殿、我々は淋しいのだ。切ないのだ。僅かな救いが欲しいのだ。君を我々の仲間にして何時でもその巧みなバンジョーを聞かせて欲しいのだ。今夜は分が悪いので引き上げるが、これから3日の内に必ず君を連れにやって来る」

「保安官の旦那、あなたの優しさをどうか我々にお授け下さい。では」



「カワード大丈夫かけがはしていないか」

「うむ、顔が真っ青だ。これは医学的に死相と思われるな」

「悪漢相手だったらぐいっと見栄を切って一歩も引かないラリーも、死霊相手では分が悪いようですね。おいラリー、しっかりしろ」

「彼らの指揮者でパービュランス大尉と言う者が、3日の内に私の命を取りに来ると言った。どう言う事なのか私には分からない、どうしてなんだ、私は彼らを哀れに思い同情をしていると言うのに」

「生きている人間の恩情は、死んだ者には通用しないと言う事だろう。おや町長、何処へ」

「ボビーの酒場だあそこにはラリーに恩義を感じているゴロツキが大勢いるだろうからなラリーがいなければ町は成り立たんじゃによって連中にも手を貸して貰うのだ」


オバノン町長は転げるようにして酒場へ向かった。そこでカードやダーツや喧嘩をしていたゴロツキたちは、かつてカワード保安官の取り成しで減刑されたり命を救われ、この町で正業にありついた者ばかりだった。男たちはラリーの兄貴の為だったらと快く二つ返事をして、早速6連発を腰にぶっ込んで、すっとこどっこい保安官事務所へ駆けつけて来た。事務所の中では裸にされた保安官の体に、ナサニエル牧師が香油を塗っていた。聖体受拝等に使う秘蔵の香油を惜しげもなく筆で塗りたくる。正直牧師にも、これで果たして効果があるのかどうか分からなかった。後はカワードのそばに付いていて彼の(あるかどうかは別として)霊力でもって死霊を退散させるしかないと覚悟していた。旗色が悪かったら、崖っぷちに立たされた親友カワードと共に死んでも構わないとさえ思っていた。

それから2日の間は何事もなく過ぎた。その間カワード保安官は一人事務所に籠って、何か考え事をしていた。そして3日目の晩、時計が10時を打った頃だった。

保安官事務所前の建物や樽の陰に潜んだガンマンたちは、今日こそ来るかと道の彼方の闇を凝視していた。やがて遠くから木枯らしのような音、ややあって暗闇に青白く浮かんだ何かが見えた。助っ人のリーダー格「仇返しのホプキンス」が震える声で一同に警報を出した。


「きや…きや…来やがったぜ、お前らブルってんじゃねえねえねえぞ」

「ようホープ、幽的に弾なんか効くのかよ」

「馬鹿野郎知るもんけえ…お、おれ、俺だって幽霊なんてモンとゴロ巻くなあはじ、初めてなんだ」

「流石のホプキンスも怖いらしいな」


木枯らしのような音はやがて、枯れ果てた男たちが歌う「スワニー川」だと知れた。パービュランス大尉の叱咤するらしき声もそれに交じって聞こえるような気がした。南軍の亡霊は二列縦隊を組んでテレグラフ街道を真っすぐにやって来る。それは歌声が急にはっきりと間近で聞こえるようになったからであった。ホプキンスはヤケクソ気味な声で、


「野郎共、今だぶっ放せ!」


途端にその場にいた十人程のガンマンが撃ちまくる。しかし街道に青白く浮かんだ兵たちは誰も倒れなかったし止まりもしなかった。あっと言う間にガンマンたちの目の前にやって来て彼らの顔を覗き込む。白骨の兵士たちの無念の呻きと黴臭い臭いが同時に押し寄せ、多くのガンマンはその場で気絶したのだし、喧嘩といかさまはアパラチアからこっちで一番だと自称していたホプキンスは拳銃を放り出し四つん這いになってその場から逃げ出した。

南軍の亡霊たちは保安官事務所の前で整列すると、パービュランス大尉とハリー、その他数名が事務所に入って行った。事務所にはカワード保安官一人だけだった。保安官はまるで長い間悩んでいた事がすとんと解決をみた時のように落ち着いた晴れ晴れとした表情をしていたし、取り乱した風は微塵も見られなかった。


「保安官殿、さあ私たちと一緒に行こう。戦いに負け、南部の誇りは踏みにじられ、味方の将軍から見捨てられ、飢え凍えて死んだ私たちの無念を分かってくれ。私たちには君の慈悲が是非とも必要なのだ。さあ、共に行こう」

「パービュランス大尉、それは断る」


カワードははっきりと拒絶した。


「それはあり得ない。であるならば力ずくでも連れて行くまでだ。表に待機している全員で」

「では、全員を中に入れたまえ」

「レスリー隊、入れっ」


ボロを着た白骨の一団が事務所に乱入して来た。彼らは手に手にケンタッキーライフルを擬していた。


「幽霊ども、私が相手だ。私はこの町の牧師、ナサニエル・カッシングだ」


隣の部屋から飛び出して来た牧師は、保安官を庇うように立つと、顔の前に十字架を捧げそこにいる全員の黒い眼窩の眼差しを跳ね返す精一杯の大声で威嚇した。


「汝ら哀れなる魂魄よ、主の御許に至る正しい道を見失い荒野を彷徨える者よ、我の指し示す揺ぎ無き御籠への道を歩み、その身を主に委ねよ。主よ願わくば我に力を…」

「貴様か、保安官に余計な事をしてくれたのは。それがどうした、我々は地獄の銃火をかい潜って来たベテラン兵だ、笑止千万、十字架がどうしたと言うのだ」


パービュランス大尉がそう叫ぶと手にした剣の柄でナサニエルに打ち掛かった。あっと言う間に十字架は砕け、牧師は眼鏡を吹き飛ばされて床に倒れた。白骨の兵士らはカワードに向き直り襲い掛かったが、体に触れた瞬間感電でもしたように手を放して呆然としている。香油の効果があったようだ。床に昏倒したナサニエル牧師が気絶するまでの間、彼の耳はカワードの声を聴いていた。カワードは何時もの堂々とした落ち着き払った口調でこう言っていた。


「止せ、乱暴は止めるんだ。君たち良く聞け。私としては君たちについて行く事に異存はない」

「何と、来てくれるか。有難い。私も暴力で君を連れ去るのは正直気が引けていたのだ」

「但し私を連れて行くにあたっては…」


ここまで聞こえた所で、ナサニエル牧師は気を失った。隣室では町長と医師が事の成り行きを見守っていた。町長はともするとこの場から逃げ出したくなる衝動と必死に戦いながら、何時かこの件で証言をするかも知れないと言う職責感でその場に留まっていた。ミード医師はもっと分かりやすく、単に医学的見地から生者対死者の格闘、論戦をまるでボクシングの試合でも観覧するかのように眺めていたのであった。


「但し私を連れて行くにあたっては、この事を考えて欲しい。私は君たちの境遇を哀れに思い、同情し、生きている者であったならこのノッツバーンのコミュニティに迎え入れて、良い仲間になれると本気で思っていた。しかし君たちは残念な事にこの世の人間ではない。ならばせめて私は、私が生を許された間は、君たち一人一人がかつてこの世に生きていた事を記憶し、皆に伝え、更にこのアメリカにどれだけ眠っているか知れないが、同じように野に捨てられた不幸な兵士を弔う旅に出る積りなのだ。保安官を辞職して、君たちの仲間を救う旅に出ると決めたのだ」

「何だと…」

「星のバッジを捨てて、君たちとその仲間に寄り添おうと言っているのだ。私を連れて行ったとしたら、その回向は出来なくなる。するとどうなる。私が仲間になる事で君たちは救われるかもしれないが、同じような境遇の、捨てられて見向きもされない友軍の多くの戦死者の霊魂は」

「保安官殿、君は本気でそう思っているのか」

「君たちがやって来るまでの間、どうするのが一番良いかを考え続けた。色々な選択肢があったが、妻も子も流行り病で亡くして天涯孤独だし、治安維持の仕事は助手のオーリーが良く育ってくれている。だから私の残りの人生は…」

「判った。良く判った。しかし他人の言を鵜呑みにする程我々は人間が出来ていない。私は保安官殿の言う事を信じるが、担保は頂いておきたい」


そう言うとパービュランス大尉は彼の両耳を引っ掴み、一挙に両耳を削いでしまった。ナサニエル牧師はそこだけ香油を塗るのを忘れていたのだ。カワードは冷たい感触に背筋が凍る思いがした。血は流れていたが不思議と痛みは感じなかった。


「保安官殿、君の両耳を担保として預かって行く。ならば無念の内に倒れた我が友軍の冥福を、存分に祈って欲しい。利己的な事を聞かせてしまって私は恥ずかしい、どうか許して欲しい。ではさようなら…レスリー隊整列っ、右向けえ右っ、前へ進めっ」


保安官事務所に入りきれない程いた彼ら白骨の南軍兵は、号令と共にかき消すようにいなくなった。カワードは事務所からよろめき出てテレグラフ街道を眺めると、もう遥か遠くに青白く浮かび上がった彼らの隊列が見えた。その隊列に纏いつくように、木枯らしの吹き抜けるような彼らの歌声が響いて来た。カワードはバンジョーを取り上げると、彼らの残像に向けてスワニー川を奏でた。


遠く遠く スワニー川へ向かう
そこは私の心が向かうところ
そこは懐かしき仲間達がいるところ

人生の浮沈に 悲しくさすらう
懐かしく 思い出されるのは
農場で働いていた頃 そして故郷の人々

この世はどこだって憂鬱 向かう所全て
ああ同じ虐げられた者同志なら 分かるだろう
故郷の人々から遠く離れて暮らす この心の悲しみが


若い頃に育った農場には 沢山の幸せがあり
沢山の歌をまた歌った

兄弟と遊んでいた頃が 幸せだった
ああ優しい母さんの所へ 連れて行ってくれ
僕はそこで生き そこで死にたいんだ

この世はどこだって憂鬱 向かう所全て
ああ同じ虐げられた者同志なら 分かるだろう
故郷の人々から遠く離れて暮らす この心の悲しみが


茂みの中にあった小屋が 私は大好きだった
どこを歩いていても 悲しい記憶が蘇ってくる

ハチの巣の周りでハチが飛ぶ音を いつ聴けるだろうか
懐かしい故郷でバンジョーの音を いつ聴けるだろうか

この世はどこだって憂鬱 向かう所全て
ああ同じ虐げられた者同志なら 分かるだろう
故郷の人々から遠く離れて暮らす この心の悲しみが


山の稜線がやや明るんで来た。彼ら南軍兵士の隊列を一人飛び出して、カワードに大きく手を振る男がいた。遠くて見えなかったが、カワードはその男が、最初にやって来たハリー・フォーブスに違いないと確信した。カワードもまた手を振り返した。


夜が明けるのを待たずに、カワードは事務所の外で気を失っているガンマンたちを叩き起こし、次いで事務所の床に倒れていたナサニエルを揺り起こした。


「ラリーっ、無事だったか、何とも無かったか。ああ…その…僕は一体どうしていたんだ」

「気を失って倒れていた。君は私を助ける為に、亡霊の前に飛び出して十字架をかざして戦おうとした」

「…おい、ラリー、耳をどうしたっ」

「耳は彼らが私の命を奪う代わりに、担保として持って行った。君は慌てていて耳に香油を塗るのを忘れていたようだ」

「ああ…済まなかったどうか許してくれ。だが彼らは退散したのだな、君は命を奪われず、亡霊共は諦めて帰ってしまったのだな」

「そう言う事だ。町長、ミード先生、起きていたら来て下さい。お話があります」


恐怖で腰が定まらない町長と、面白い演し物を見たと興奮しているミード医師が隣室から現れた。カワードは何時もの明朗な口調でこう口説いた。


「皆さん、これから市民に呼びかけて、手空きの人を集めてオールドシルバニアへ行きませんか。そこで亡くなった南軍の兵士を弔ってやろうと思うんです。ネイサン。傷の手当てが済んだら君も来て欲しい」



昼前、一行はテレグラフ街道が暗い森に入り込んだ先で道を外れ、カワードの案内で突兀とした岩山の麓にやって来た。そこには数十体の白骨が散らばり、周囲ではサーベルや小銃が発見された。1864年冬、ジューバル・アーリー中将率いる南軍バレー方面軍は、北軍シェリダン将軍率いるシェナンドア軍を支えきれず、補給も途絶えやがて軍は雲散霧消した。多くは山に逃れ、その後どうなったか分からない部隊もかなりの数に上ると言う。レスリー・パービュランス大尉に率いられた一隊も、そんな消えた部隊の一つだったのだろう。

ナサニエルは香を焚き掛け、祈りを捧げる。町長を始め町の一同も神妙な面持ちで手を合わせる。供養が済むと男たちは骨を集め、棺に納めると差し担いで町へ戻り、夕方までには共同墓地に葬られた。
埋葬の後でカワードはその場にいた全員に、保安官を辞職する事、その後は悲運な南軍兵を弔う為長い旅に出る事を告げた。市民の驚きは大変なものだったが、それよりも初めてその事を聞いたナサニエルの驚きよう、嘆きようはなかった。ナサニエルは子供のように泣きじゃくり、どうか町の為に残って欲しいと口説いたが、南軍兵の亡霊たち殊にパービュランス大尉との約束だから守らなければならぬと断言し、市民一同へ別れの挨拶をした。



その後、世捨て人同然となったカワードの行方は杳として知れなかった。カワードかどうかはしかとは分からないが、耳に包帯を巻きバンジョーを背負った巡礼者が、ある時はフレデリクスバーグのメアリーズハイツで、ある時はゲティスバーグの神学校の丘で、またある時はチカモーガで、またある時はアポマトックスコートハウスで目撃され、また幾つもの白骨化した骸を抱いて共同墓地へ向かう姿も確認されていた。

1877年春頃、カワードらしき人物がシェナンドア渓谷の人気のない谷に入り込んで行く姿を地元の猟師が目撃したのが、恐らく彼の最後の記録であった。