飯田線新性能化の頃
旧性能時代の飯田線の面白さは、一にかかって車両のバラエティに富む事が挙げられるでしょう。
国鉄に買収されて以来の伝統である多種多系統の芸術的であり無統制な混結ぶりは、雄大で変化に富んだ沿線風景の記憶すら霞ませてしまうに足るものでした。
保守検修に当る現場の苦労は一方ならぬものであったに違いありませんが、ファンの心には強烈な印象として灼き付けられ、今尚語り継がれている事です。
その伝統が一旦断ち切られたのは、旧性能国電が119系に一斉に置換えられた昭和59年の事です。
車窓に描かれる絵は以前と変らぬ筈なのに、そこに強烈な個性を発散する役者がいない。その事が私の足をもう一つ「飯田詣」に向けさせなかった理由でした。
昭和61年。久し振りに実物誌に目を通していると、一つの記事に目が止りました。それは静鉄管内の大規模な車両転配に関するもので、119系の大半が静岡に移り、空席となった豊橋や伊那松島には「主に首都圏、関西圏で使用されている国電の改造車」が充当された、とありました。
興味を引く物があれば実地に見るに如かず。当時新入社員であった私はどうにか理由を並べ、取れない休みを取って押っ取り刀で大垣夜行の車中に収まりました。
以下の記述は、昭和61年9月23日、飯田線1221Mの車窓から見た、興味深い対向列車、通過列車の記録です。
三河一宮駅、10:51、上り1222M・辰野-豊橋
クモニ147+クモニ143+クモハ119+クハ118
未明4:48に辰野を発し、延々と旅を続けてきたこの姉妹列車に出会うのは、実に豊川の一つ先、三河一宮であった。荷電を2両も連結しているが、小荷物輸送が風前の灯となっている現状で何を輸送しているのだろうか。
何れにしても荷電併結の姿は、かつてのクモニ83やクモニ13を繋いだ凸凹編成を彷彿とさせるに充分である。
東栄駅、12:00、上り630M・中部天竜-豊橋
クモハユニ119+クハ144+クモハ119+クハ118
珍車クモハユニ119を併結した4連で、次位には同車とコンビを組んでいた143系クハ144が繋がっている。
鉄道郵便輸送が廃止された現在ではクモハユニは小荷物、新聞輸送電車として使用されているようであり、いずれ全室客室化されるか事業車に改造されるのであろう。
天竜峡駅、13:42、下り貨物列車番号未詳
ED64+ワム+タキ+ヨ
ED62の後継車として麗々しく登場したED64は無論新製車ではなく、EF65PFの改造である。
緑の山並みを背景にして小貨物列車を従え佇むEDの姿は、落魄のブルトレ牽引機とも、田舎舞台に過ぎた千両役者とも見える。かつてのED19(→ED53)に通じるイメージがあるようだ。
山吹駅、14:31、上り240M・辰野-天竜峡
クハ165+モハ164+クモハ165
飯田色に塗られた165系の3連は、当初の違和感も薄まり残余の119系と共に飯田線全域で活躍している。
中央筋の急行の減便で余剰になった800代車が殆どで、デッキ仕切、WC一部撤去、セミクロスシート化改造されている。朝夕の時間帯以外は閑散としている飯田線の輸送状況では3連は何如にも大仰に見える。
七久保駅、14:54、上り1534M急行「こまがね3号」
新宿-天竜峡
クハ185+モハ184+モハ185800+クハ185
59年の改正で大幅に間引かれた急行アルプスだが、それでも尚4便が185系化されて残存しており、内2往復は以前と同じく「こまがね」を併結している。
東海道筋では何かと良い噂を聞かない185系だが、こうした姿を見ている限り急行こそが彼らの天職に思えるのだ。
駒ヶ根駅、15:20、上り242M・上諏訪-天竜峡
クモハ119501+サハ111000+サハ112000+クモハ119502
この旅の終盤近く、とんでもない「新車」と対面できた。予ねてから噂には聞いていたが、119系の足廻りに117系並の車体を載せた「現流」編成は、画一的な列車が横行する現在にあって目眩がする程のインパクトを持っていると言えよう。
1M方式のクモハに挟む中間車が捻出出来ないので、岡山から持ってきたサハ111と、向日町から流れてきた新快速サロ112を3扉化改造したサハ112。車体断面も高さも微妙に違う編成美。当然これは現場の都合による偶然であろうが、ファンの目から見れば、サハ75、サハ87を挟んで快走していた「新流」の姿を彷彿とさせるに充分なものであった。
伝統は覆らず、却ってその爪を鋭く研いでいるかに見える。