陸越東線における客車・運用と車両



陸越東線の客車運用については、かつての鉄道省時代を含めて語ってしまうときりがない。昭和24年まで仙台局管内に残っていた雑型客車コハ6500や、中型木造客車に時折連結されていた3軸ボギーのスハ28400などトピックに事欠かないのは確かだが、紙数の関係もあるのでここでは昭和40年代以降に限って話を進めよう。


昭和33年、小牛田地区にキハ17型気動車が大量投入され、それまで蒸機牽引の混合列車が主体であった陸羽東線、陸越東線、石巻線の殆どの列車が気動車化せられた。
しかしながら地域間を結ぶ中距離ローカル線である陸羽・陸越東線においては、郵便小荷物の輸送や対大都市圏輸送の関係から、その後も数本の客車列車が残存する事となる。
昭和40年度ダイヤ改正では陸羽東に直通2往復、陸越東に直通2往復と加美宮崎折返し1往復が見られる。特に加美宮崎折返しの1往復は、陸羽・陸越東線の陸前側対仙台間輸送の切り札であり、基本編成に附属編成を合わせた8両もの長大編成で運用されていたのである。

それに対して昼間の客車列車は実に閑散としたもので、気動車2両編成で充分な所へ、基本編成に郵便荷物車を併結した6両程度の編成であった。


沿線に著名観光地を持つ陸羽東線に比して、これと言った集客力を持たない陸越東線にあってはこの運用は非常に無駄なものであって、昭和41年、小牛田区に客郵荷合造気動車(15、26)が転属して来ると、2往復の直通客車列車の内1往復は早速気動車化の対象となった。これによって陸越東線の客車列車は秋31運用(秋カタ)の直通1往復(616・623)、加美宮崎折返し1往復(1653・1652)、合わせて2往復となった。

陸越東線に関しては、このような状況で昭和47年の蒸機廃止を迎えるのである。

この間の運用は実に単純で、基本編成は下図の通りであって、これに区間々々附属編成が併結せられる。


昭和40年代前半と言えばオハ35系などはまだ幹線の主力客車であり、地方線ではシートピッチの狭い鋼体化客車(60・61)が普通であった。ここに見る「オハ」とは大概オハ61系の事を指し、稀にオハ60が使用されていた。蒸機廃止も間近い昭和45年ともなると些か事情が変わってきていたのか、3両のオハ35をオハフ61で挟んだ編成も頻々と見受けるようになった。全直列車ではこれに秋郵荷75運用のオハユニ61(後にスユニ)を併せ、折返し列車では仙附58運用の35・32系が3両程増結せられていた。

牽引は何れも小牛田のC58で、団体用増結車があると重連となる事もあった。


加美宮崎駅には折り返しの為の客留線の他、蒸機用の駐泊所、給水施設、転車台の設備が設けられていた。
朝の通勤列車は牽引機を変えずに仙台まで直行していたのである。しかし昭和43年10月の改正から小牛田で牽引機をED75に交替する事となった為、朝夕の折返し列車は同じ小牛田のC11が担当する事になった。勾配はそれ程でもないとは言え、C11に現車8両はさぞ辛い仕業であったろう。


先にも述べたが加美宮崎折返しの1653レは8両と言う長大編成である。けれどもこの列車の座席が埋まるのは陸羽東線からの乗換え客を受ける古川からであった。このような事情から始発の加美宮崎から古川までの間は附属編成の3両のみで客扱いをし、基本の5両は締め切りであった。

昭和47年春から小牛田区に新鋭DE10が配置せられ、その夏一杯を掛けて頻繁に訓練運転が行われた。その間、C58の前位にDE10が付く事が多く、訪れたファンをがっかりさせる一幕も見られた。


そして昭和47年9月23日、陸羽東線、及び陸越東線のSLは姿を消したのである。それと同時に両線の直通客車列車も姿を消した。

しかしながら小牛田側の通勤列車はDL化後も残った。当時東北本線は過密ダイヤの限界に達しており、殊に朝夕の混雑時間帯に鈍足の一般型気動車を増やす訳には行かなかったのである。
受持ちはそれまでの秋田局(秋カタ)から仙台局持ち(仙セン)へと変わり、それにつれて車両も61系から35・43系等へとグレードアップした。


この列車は昭和56年10月改正で50系4両へと変化し、小牛田止まりとなった。そして東北新幹線開業の昭和57年11月改正で気動車化されたのである。

幹線は知らず、幾許かの事情があって多少の延命はあったとしても、地方線において客車と言う乗り物は蒸機と共に消え去る運命であったものなのであろうか。