ボクラの経済戦争・キャップ長者の末路
I氏の1976年時点での身分は小学5年生だった。私は5年1組。I氏は2組だった。その年の6月7日月曜日、I氏は牛乳のキャップを収集している事が露顕した。その日の給食後、2組の数名の男子がI氏に倣ってキャップの収集に乗り出した。それは狂乱の一週間の始まりであった。
翌6月8日火曜日、2組の男子はほぼ全員がキャップと言う資産収集に熱を上げており、最初はクラスの女子等から無償で譲渡されていた。しかしそうした国内供給はすぐに破綻し、5時間目の休み時間には我が1組に出向いて来て、キャップの無償譲渡を持ち掛ける者が現れた。1組でも資産家は数名いてバーター取引に応じていた。詰まりコーヒー牛乳キャップ1枚に対して白牛乳5枚のレートである。2組では経済動向が異なっていてコーヒー牛乳キャップ1枚が白牛乳10枚と言うレートであったと後で知った。為替格差を利用した増資に成功したのである。
事態に変化が現れた最初は、翌9日水曜日の昼休みであった。2組のK君と言う大人しい人が私の席にやって来てキャップの譲渡を願い出た。ただ彼が他の資産家と異なっていたのは、有償譲受を前提にビジネスを持ち掛けてきた点においてであった。彼は手にした茶封筒を開けて、ライダーカードやスーパーカー消しゴムを見せ、どれでも持って行って良いと持ち掛けた。私は仮面ライダーに敬意を表していなかったので、スー消しの中でも渋いロールスロイスを摘み上げ、取って置きのフルーツ牛乳の緑キャップと交換したのである。
これに味をしめた私は、給食室裏の可燃ゴミ置き場に行って廃棄されたキャップを大量に収集し、5時間目の休み時間を待った。2組では今頃K君のビジネスが成功した事が噂になっているだろう、案の定次の休み時間、我が1組はトレーディングセンターと化したのであった。休み時間が終わって見れば、私の机の上はメンコ、リリアン編み機、チェーリング、紙石鹸、ビー玉、落書きだらけの自由帳等で表面が見えなくなるほどだった。私は利殖目的の先行投資に成功し莫大な量の動産を取得したのである。以上の一回きりで私の冒険的投機は終わった。
1組や3組ではキャップ収集は流行らず、ただ2組だけが空前の好況を呈していた。翌々11日金曜日にはキャップ相場はうなぎ上りで、午前中はライダーカード1枚に対して白牛乳キャップ1枚と言うレートで推移していたのだが、売り渋りが続出し、午後には急騰の兆しを見せていた。ライダーカードでは最早取引は出来ず、コンプリート済アルバムしかも美品に対して白1枚、スー消しはポルシェ等では駄目で、ミウラやウラッコ、デトマソパンテーラ辺りでないと取引にはならなかった。
ここに来てキャップ値はストップ高となったのであった。何故ならば小学生男子の持ち得る動産の内、最も価値ある物ですら取引にならないから。それ以上の価値がある自転車や本等は足が付くだけの有危険動産に数えられた。その頃キャップを数多所有する大資産家は、この間にありとあらゆる動産とバーターに応じていれば良かったのだ。まだ値が上がると踏んだか、2組の富豪達は資産の売り逃げには頑として応じなかった。この好況が永遠に続くものと誰もがそう信じていたに違いない。そして迎えたのが12日土曜日。暗黒の土曜日として記憶に留めるべき日であった。
3組にSと言う声望ある男がいた。彼も資産家の一人で、袋一杯のキャップを所持していた。そんな彼がの一言が破滅を齎したのであった。
「何か俺たち馬鹿な事やってねえ?」
その一言が資産家の口から発せられた事は重大であった。それは革命であった。革命とは常に階級の自殺である。その発言は相場に動揺を与えた。休み時間の10分の間にレートは急落し買手は付かず売り注文ばかりが殺到する騒ぎとなった。トレーディングセンターこと1組の教室は、1時間目の休み時間は活発な取引がなされていたが、2時間目の休み時間は寄り付きが無く閑散となってしまった。2組の巨大資本家達は突如手元の資産が紙屑同然に(紙屑なのだが)なった事に狼狽し、騒ぎの発端となったI氏に巧い事言って押し付けたのだ。「無知と言う方向に明朗で前向きな(詰まりアレな)」I氏はこれを喜んで譲受した。「俺、世界一の金持ちだ」と言っていたそうである。
I氏が皆から受け取ったのは資産でも動産でもなく、多額の負債に過ぎなかった。これが判明するのは翌々日、詰まり1976年6月13日月曜の朝である。2組の教室から絶えず号叫や悲鳴が聞こえて来る。
「オエッ臭え、何だ?」
と言う男子の怒号が轟いた。そう、I氏の資産である牛乳キャップはビニール袋に不完全な梱包を施され、ロッカーや掃除用具入れに積み重ねてあった。折しも梅雨時である。何百枚あったキャップは腐臭を発し、目を開けてもいられなかった。騒ぎに気付いた担任によってそれらの動産は即時差し押さえられた。1組2組の男子も強制代執行に駆り出された。見るとI氏は担任に抑え付けられ、もがきながら「俺の財産、俺の財産」と絶叫していた。シャツがはだけた。ヘソが汚かった。何袋もの押収物を持ち、余りの臭さにゲラゲラ笑いながら焼却炉へ向かった。ここに牛乳キャップバブルは終了したのであった。
中学に進学した後、同じクラスになったI氏にあの時の事を尋ねた事があった。氏は怒りもせず嘆きもしないでただ嬉しそうに思い出していた。「あれはよう、笑わせようとしてやったんだぜ」。彼は勿論今も元気で活動中で、議会制民主主義の裏方に任じている。
日本よ、ああ、日本よ。