日本(インチキ)風俗大系3
幻の境界線 -山中県・草壁県、国界(こくかい)-
(週刊文潮2000年10月28日、連載記事「シリーズ・境界線を行く」より)
あらゆる都会的享楽から遠く隔たった県境の小集落、山中草壁両県、国界。
集落の中央を隔てる杉谷川が県境となり、行政的には山中県と草壁県に分断されている。
集落の草壁県側には小・中学併設校があり、草壁側58世帯の子供はそこに通っているが、山中県側35世帯はその恩恵に俗してはおらず、バスで20分離れた下穏川分校に通っている。
山中県側には農協支所があるが、草壁県側の農家が何事か相談する際は、バスで30分隔たった中造村役場まで赴かなければならない。
医療巡回サービスやゴミの収集、移動図書館や移動販売車まで、川を挟んで別々に行われているのが現状だ。
しかし暮らしのレベルでは別であって、現在でも橋を渡っての行き来は盛んだ。行政が築いた幻の境界線があるばかりで、人々は事ある毎に「川向う」の誰それさん、等と口にしている。県境を挟んだ親戚は、ここでは珍しい事ではない。
なぜ村は分断されたのだろうか。
その歴史は意外に古い。元々は須沢往還に沿って開けた「小国集落」で、少なく共平安時代末期までには人々が定住していたとされている。国界の名前は明治に入ってから付けられたもので、それ以前は上穏川(かみおんがわ)と称していた事が、地籍台帳によって明かにされている。
右図はこの付近の概念図だが、オレンジ色の線が現在の県境、途中から分岐する赤の線は旧国境であって、右が総前国、左が総後国と称していた。国界集落は川と県境の交差する位置にある。中央を左右に貫流しているのが杉谷川で、川に沿って街道が延びているのが判る。
右は江戸時代中期以降の境界図である。
国界付近で南から杉谷川に合流する早瀬川の上流で、元禄年間に小規模ながら銀鉱が発見された事により、縄坂藩領の上穏川郡一帯が天領として召し上げられた。幕府は総州道中造に代官所を置き、更に上穏川に架かる橋の北詰に関所を設けた事で、初めて上穏川集落は分断されたのだ。
時代が下って明治に入ると、一旦中造陣屋領は解体され、改めて総前国に編入された。廃藩置県で同地は旧藩の名を取って縄坂県と称された。街道の関所は廃止され、村は「再統合」に湧きかえったと記録にある。察するにそれ以前は川を渡る事は容易ではなく、例えば川向うの親戚に慶事弔事があった場合、その人は寺へ赴き鑑札を貰った上で橋を渡らねばならなかっただろう。
明治4年11月、一旦成立した縄坂県は隣の山中県と合併し、現在の山中県が成立した。その際、どのような政治的綱引きが行われたものか、「川向う」の旧中造陣屋領はそのまま総後国、現在の草壁県に属する事になった。これにより再び上穏川は分断されてしまい現在に至っている。
以後は行政から交通網まで、全て川を挟んで分断されたままだ。左図は須沢往還を走る路線バスの概念図だが、山中県側は「山中中央交通」が、草壁県側は「草壁交通」が、きっちりと県境手前までの交通を受け持っている。
右の図は上空から国界を俯瞰したものだが、画面左上から南下してくる街道上をやって来る山中バスは、橋の手前「国界橋」バス停(B)で折り返して行く。
そこから先、草壁県内に用事のある人は深い渓流に架かる国界橋を徒歩で渡って、対岸の草壁交通「国界」バス停(A)まで行かなければならない。
かつては双方のバス会社が話し合って、接続可能なダイヤを組んでいた時期もあったが、自家用車が普及した結果乗客が減少した現在では次第に便が削減され、完全に接続は考慮されていない。
このようにあらゆるサービスが一本の川で分断されていると見えるが、人々の暮らしはそれと無関係に一体化しているようだ。山中・草壁両県の影響力が、かなり弱まりながらも衝突しているこの山奥の小集落では、却って外部の影響が減少すればする程、昔のままの一つ村の姿を取り戻して行くのだろう。
(著者註:2005年現在、国界集落に通じてるバス路線はない。)