「1月22日 マラリヤが漸次よくなつてきましたので、さぎよ(作業) しました。午後空襲ありました。せん(戦闘機)3、ばく(爆撃機)2」

「1月25日 慰問袋とどきました。岡部伍長殿と大出君とで中隊しえき(使役) でました」




「1月30日 あさがた内地の夢みました。五月雨のふる谷間をC56が走つて ゐました」

「2月10日 ふりよ(俘虜)いどうしてゆきました。泰緬線のコンコイターまで をくり(送り)ました」




「2月12日 また内地の夢みました。C56は客車をいぱい(一杯)ひいて白い けむ(煙)を吐いてゐました」

「2月18日 客車は泰緬線のばらく(バラック)客車のごときではありませんで、 鉄道しやう(省)の客車でした」




「2月21日 マラリヤのほさ(発作)が再発しましたので、しえき安井兵長殿に かわつてもらいました」

「2月23日 内地の夢みました。竹やぶがありました。お茶畑がありました。 こいのぼりがありました。C56のやねには機銃がついてをりませんでした」




「3月16日 夢みました。C56は霧のたにま(谷間)を走つてをりました。 自分も乗つてをりました。孫も乗つてをりました。それを見る別の自分もをり ました」

「3月27日 熱がでましてくるしくありました。タムロンパートでじゆだい (重大)事故ありました。C56の夢みました。なんば(ナンバー)は44号 でありました」




「4月18日 C56の夢みました。内地の夢みました」




「7月19日 内地の夢みました」



これはワシントンDCの公文書館で公開された日本兵の遺品の内、特に心を打 った日記の抜粋である。
この兵士の名前も、所属部隊も知れない。どこでどうして亡くなったかもわか っていない。
文書も文字も稚拙であるが、そこには愚痴もはったりも書かれてはいない。 実直な、恐らく戦争が無ければ良い人として皆に愛されたであろう人柄が覗え てならない。
その彼が「日記をつける事を止める日まで」、内地を走るC56の姿を 夢見ていた事が、読む者の心を暗澹とさせるのである。

果たして彼は目を瞑るその瞬間にも、五月雨の谷を行く列車の夢を見ていた であろうか。