戦時下の夢・モハ63型
「凡そ電車と云ふ物は人間が使ふに充(原文ママ)つて便が良いやうに造形さるヽものである。
現在の処省線電車の最精鋭と云ふのは東京のモハ60型、京阪神にあつてはモハ52型である亊は疑ひ無いであらう。殊に60型は大馬力の改良電動桟(ママ)を搭載し、将に世界に誇るに足る高性能電車と謂へる。
サテ、此の60型の後継車は如何なる電車が相応しいだらうか。次世代を担ふべき夢の電車とは一軆どのやうな形になつて行くのか、チヨツト考へて見やう。
現今の輸送情勢を見るに、省線區間の混雑は目を覆はしむる量り(ママ)であつて、殊に主要驛に於ける乗降時間は(以下28文字判読不能)るから、兩開き扉の導入は寧ろ必至であるに相違無い。
即はち圖にすると斯ふなる。
架空の電車であるから形式名なぞは「2600型」だらうが「ゼフア」だらうがだうでも構はなさうなモノだが、取敢へず此処て(ママ)はモハ63型」として措かうか。
この繪の編成は、モハ63-サハ58-クハ56-モハ63-クハ56と名付けてやらう。
矢張り省線電車の美しさとは流線美であ(以下11文字判読不能)張上の艶艶した肩に埋込砲弾型前照灯、更に謂(以下40文字判読不能)0型と略同であるけれど、兩開きの三ッ口車となれば、混雑時間にさぞや威力を発揮するで(以下5文字判読不能)、山手、中央、京濱線等は随分と具合良く成るであらう。
勿論、葡萄色一色の省線に徒花の如く咲ひた「オリンピツク塗装」も捨て難い。
省各線が斯くなるならば、東の長距離電車の大關、横須賀線にも新型省線が入らなければ格好が附くまい。兩開扉二ッ口、廣窓にしたの(以下8文字判読不能)イメイジを拂拭し(以下11文字判読不能)らであ(以下21文字判読不能)型は矢(以下3文字判読不能)ハユニを除いては考へられぬから、先頭にはモハユニ70型を推立てた。
こ(以下4文字判読不能)成は、モハユニ70-サハ70-サロ70-サハ70-モハ70と謂つた処(以下1頁判読不能)
東京の電車が斯ふなれば、電車王國關西も負けてはゐまい。
現52型の後継に、斯んな(ママ)電車が登場して急行電車に使用されるかも知れぬ。流電の後(以下2文字判読不能)しくサロハを含んだ4輌聯結で、獨逸の急行氣動車の如き正面見附(ママ)を施して見た。
モハ53-サロハ67-サハ49-モハ53と名付。
サテ、其の後、電車の形態はどうなつて行くであらうか。
何れ近い将来、電車には空調が設置されるのが普通とならう。その為には窓は密閉しな(以下8文字判読不能)あらうし、賑やかなベンチレター(ママ)もその為に消えるかも知れぬ(以下15文字判読不能)煙りと無縁となるであ(以下6文字判読不能)色も一層明解(ママ)で爽かな色に変るに違ひない。
上段の「急行電車」の如き軽快な電車が疾駆する時代には鐡道の電化も大層進んでいるであらうから、最早東京だ關西だと謂つている時代ではあるまい。
即ち東海道本線は電化され、斯ふし(以下18文字判読不能)
目を集めつヽ兩都市をしつかり結んでいるであら(以下5文字判読不能)
て(以下1文字判読不能)
ふした電車に乗つて居て欲しいのは「新婚旅行で熱海なり伊東なりへ赴く幸福さうな御寮人(ママ)」であつたり、「田舎の親戚が尋ねて来たので、一緒に上野へ活動を見に行く大學生」であつたりして欲しいと願ふ(以下12文字判読不能)
員や見送る旗の波等(以下4文字判読不能)
合はない。「平(以下25文字判読不能)
雲は未だ止ま(以下25文字判読不能)
々大勢の無辜の(以下6文字判読不能)
としてゐる今日にあ(以下78文字判読不能)
和でなけれ(以下36文字判読不能)
ずや平(以下59文字判読不能)
イパンの次は沖(以下32文字判読不能)
和(以下判読不能)
これは戦時中のある鉄道マニアがノートに書き遺した「モハ60系以降の新型電車」の話である。両開きドア、エアコン、明るい塗装など、101系以後の電車の変遷を予測しているようで面白い。
このイラストは、ノートに画かれていた繊細なペン画を元にして画いたものである。
先日神田の歴史書に強い某古本屋に立ち寄った際、これが記されていた帳面が「あじあ號設計圖」や「平北線列車運行圖表」等に挟まれて置いてあったのを見つけ、大枚2万円強を叩いて購入した。
その内容はこのノートの持ち主が昭和15年頃から20年に掛けて書き記した「架空鉄道」ノートであった。「弾丸列車予想図」や「玉電の厚木方面への延伸」等、中々楽しい記事が巧みな字や美しいペン画でびっしり記されていた。
不思議なのは、ここで仮に附けられている「モハ63型」は、この記事が書かれた昭和20年の時点で、既に「走る決戦兵器」として数輌が就役しているのだ。その姿はイラストの電車とは似ても似つかない「バラック電車」であった事は諸兄もよくご存知の事であろう。
ではなぜあえて「63型」としたのか?
これは想像の域を脱しないが、著者は恐らく「戦時」を厭うていたのではなかっただろうか。そして「現実の63型」に戦時のイメージを集約し、著者だけの「夢の63型」を画き上げる事で、辛い戦時の日々を忘れようとしていたのではないだろうか?
そして声には出せないが、心中密かに平和の回復を願っていたのではないだろうか?
持ち主について店主に聞いたが、こういう返事であった。
「何も分からないんだよね。20年3月の空襲の後、墨田のどっかの焼けビルの金庫から見つかったんだそうだけどさ、だからこうして半分蒸し焼きになってるでしょ。持ち主が生き残ったのかどうかも、丸で分からないんだよね」