此道一筋・老駅逓員に聞く日本鉄道の黎明




この文は享文17(1919)年、御府内内神田芝崎町、英明社中発行の共和国50周年記念誌「帥壇議説」より抜粋したものである。
同書は当時存命であったさまざまな分野のピオニールにインタビューし、併せて日本共和国の未来を談じる内容であった。欧州戦争が終結し、更に泰政18年以来敵対国であったイギリスと関係修繕が出来た記念すべき年であり、一方で社会主義の浸透が各界の話題となった年。その時点から50年前を振り返った時、さながら胸の踊る話が百出する刊行物である。
その中から、下谷駅逓所で長年勤め上げ、鉄道(轍道)荷扱いの生き字引と言われた小中竹蔵氏(当時69)のインタビューを掲載してみよう。



俺が轍道の仕事に就いたなぁ、慶応五年の開業の時だった。江戸の大いくさのせいでどこもかしこも焼け野原になっちまってなぁ、幾ら焼け慣れてる江戸っ子だったってあん時はもう皆駄目かと思ってたな。共和政府軍が入府するまでの間、奥州から落ちてくる西国の兵隊はまず野盗と思って間違い無かったから、江戸は住むに住みにくい所だったね。

庄内様や会津様からのご寄進で炊き出しの粥にはありつけたが仕事が無ぇ。どうにもこうにもならねぇからその辺をウロウロしてたら共和政府の青服が呼び止めるんだよ。何でも轍道普請をするから人足が要る。そんで普請が終わったらそのまま下谷駅逓所にお抱えてぇ事になったんだ。荷物賄方に就いたんだが、これはその時分一日二回蒸気車が荷車を牽いて横浜租界から走って来る事になっていて、荷車から荷物を本台に降ろしたり積んだりする仕事だなぁ。時間が勝負だから皆張り切ってた。

「い組」から、いろはにほ丙と六つの組合があって俺は「ろ組」だった。組頭は焼ける前町内に住んでいた辰吉さんって良い兄ぃでなぁ、鳶頭の所が焼けたんで下総に逃げていた。この人が頭だったなぁ。

駅逓にゃぁ色んな人がいたよ。

先ず筆頭は駅逓差配様。アチラの言葉じゃ「ステン所マスタ」とか言うらしいが、こちとらぁ横文字はおろか漢籍もろくすっぽってぇ具合だから、大体「差配様」って呼んでえたな。
差配様ともなると、元は与力と同格だから、下っ端の俺達がまともに口が聞ける相手じゃねぇ。本来なら何か言う時は平伏して言わなきゃならねぇ所だが、その内お触れがあって「平伏に及ばず」ってさ、俺達が差配様や助役様に何か言う時ゃあ、被り物を取ってお辞儀すりゃぁ事が済むようになった。

下谷の駅逓差配様は、元幕臣の浅生外記様だった。このお方は三千石取の大身旗本で、口の利き方から何から、さむれぇさむれぇしてやがったね。下っ端のモンにゃぁ余り評判が良く無ぇ。
そこへ行くと隣の日本橋駅逓所の差配様は同じ元旗本でも中身は違ったねぇ。渋橋重内様とおっしゃって、四十に手が届くかどうかって年。五十石取に過ぎなかったが、横文字を嗜んでいたって事で差配役に収まった。人間の出来た人で、ご自分の配下の荷物賄方の小僧まで、全部の顔を覚えているのがご自慢だったそうだよ。

差配様のご権勢はそりゃぁてェしたモンで、何時も青光りする陣笠被って、金糸銀糸で刺繍した陣羽織の下にゃ黒の詰め襟筒袖に下は団袋。ぴかぴか光るのは長靴ばっかりじゃ無ぇよ、腰に落とした大小もそうだ。差配様と助役様は十手を持ってえたなぁ。

その助役様てぇのは、どこの駅逓でも一人二ァ人は必ずいたもんだ。下谷程の豪勢な駅逓ともなると「客逓賄方」と「荷物賄方」と分かれてえてね、それぞれに助役様が頭になってまとめてえたんだ。駅逓で仕事するヤツぁ皆助役様の抱え人って訳で、酷え言い方すりゃぁ差配様はお飾りに過ぎ無ぇって事だ。

最初の轍道が下谷から日本橋、品川、川崎を通って横浜の租界まで敷かれるとね、そうでなくても物見高い江戸っ子だぁな、蒸気車が走る刻限になると黒山の人だかりだよ。最初にレェロが敷かれて蒸気車が走ったのが慶応五年の五月だったから、折りしも花見時分さね。中にゃ何を勘違ぇしたんだか、轍道端の空き地に毛氈敷いて芸者と遣ったり取ったりしながら日がな一日蒸気車と車列を眺めてえた物好きがいたのを覚えてるよ。「あぁこんだの荷車にゃぁ何だぜ、鏡が挟まってやがったぜ」「おう、見ねぇな、珍しく上座が屋形に繋いであるぜ」何てってな。呑気な時代よ。

当時の物言いは今とは随分違うなぁ。どこでそうなっちまったんだか知ら無ぇが、大体轍道って言い方も今は違うんだろ。「わだち」じゃ無ぇで「金偏」の鉄を充てるんだってな。

蒸気車は蒸気車。これは今でも同じだ。
極く最初の時分にゃ、荷物を運ぶ事が多かったんで、先触れの小輪が一つ、連結棒で動く大輪が四つてぇ蒸気車ばっかりだった。これをフランス人は「コンソイドシヨン」とか「ボードワン」なんて言ってえたが、俺っちゃそうは言わなかったな。第一縮れっ毛の高島田てぇヤツで「ゆうにゆいにくい」だろう。
だから「コン」とか「稲荷」とか呼んでぇた。あんまり俺っちが「コン」「コン」ってそう言ってたら、お手伝いのフランス人が嫌な顔したり歓んだりするんでよ、何がどうなってんだか判ら無ぇから通辞呼んでそう聞いたら、何でも「コン」てぇのはフランスの言葉で女のあの辺りの事を言うんだってさ、もう大笑ぇよ。こっちゃそんな事ぁ知ら無ぇもの。結局差配様の御達しで「向後”コンソイドシヨン”型蒸気車を”コン”と呼ぶ事罷りならん」ってなっちまった。


日本共和政府道中奉行配下轍道方第一号蒸気車「先鋒号(The Pioneer)」

その内に世の中が治まって来て人の行き来が増えるてぇと、自然と旅客車列が増えるなぁ。確か慶応七年頃だったが、大輪が二つしきゃねぇ蒸気車が入ったんだ。先触れの小輪が二つでよ、聞くと何でも韋駄天ばりに速え蒸気車だって触れ込みだった。
「アンメリカン」型って言うんだそうだが、早い換わりに良く日本橋の先の曲がり端で横倒しになってやがったなぁ。そうなると近所の駅逓の手すきが駆り出されて丸太ン棒でレェロに載せ直したもんだ。レェロもひでぇ敷き方してやがったからなぁ、あん時分にゃ。昨今みてぇに砂利なんか敷きゃしねぇよ。泥田みてぇな所に構わず敷いちまうんだもの、それじゃぁ転ぶ訳だね。
「稲荷」はそうそう転ばなかった。ムカデが転ばねぇ理屈だなぁ。


日本共和政府道中奉行配下轍道方第十号蒸気車「疾風号(The Cyclone)」


今じゃ旅客車ってぇのか。あの時分にゃぁ「屋形」って言ってたな。屋形船の屋形よ。その頃ぁ箱型の乗り物なんて駕籠と舟位っきゃ無かったから、人の乗る車は「屋形」で合ってらぁ。
その屋形にも、「上座」と「下座」てぇのに分かれてた。今見てぇに賃銀余計に払やぁ誰でも乗れる「特等」「並等」なんて野暮なもんじゃ無かったって事よ。今の人ぁ誤解してる見てぇだけど、「市民章典」のお触れが出される前の時分は身分の差はまだまだ厳しかった、そりゃぁその通りだが、「下座」には「下座」の「品」ってもんがあった。
上座は成る程洋式の座やら卓子やらしつれぇてあって豪勢なもんだったが、下座だって負けちゃいなかったよ。座は畳が張ってあって、内張りゃ白木だったよ。毎年暮にゃぁ大工が鉋持って駅逓にやって来て、汚れた白木を削って行くんだな。そうすりゃ毎年新品の屋形だ。今でも轍道じゃ何だろう、毎年暮れんなると大工やら布屋やらが車置場に来て、旅客車ん中きれいに張り直してんだろう。あの習慣は轍道が出来た時分からあったんだ。

どうも上座てぇのはさむれぇと坊主しか乗れ無ぇって今の人ぁ思ってるようだが、そうじゃ無ぇよ。さむれぇだって御浪人や中間は上座を遠慮したもんだし、商人でも本間様見てぇな人ぁ上座に招かれたもんだ。小坊主なんざ大坊主にそう言われて、下座の上り框ん所で震えて立ってぇたなんて話ゃ幾らでもあるよ。

轍道の最初の時分は人よりも荷物が多かった。それはそうだろうよ、江戸のあらかたが焼けちまったんだもの、房州やら豆州から丸太やら雑穀やらを、あの今鶴見の権現様が建っている辺り、あの辺が海っ端でね、あすこから荷車に積んで日本橋や下谷に運び込んだんだ。
だから荷車は殆どが屋根無しの「ゴンドラー」だった。無蓋荷車とも言っていたが、ゴンドラーの方が言い易かったなぁ。
屋根付の荷車もあった。こりゃぁ今と形は変わらないけど、大抵は橙色に塗られていた。天蓋付なんで天蓋荷車って呼んでいた。
珍しい所じゃぁ、ゴンドラーに風呂桶みてぇな樽を二つばかり積んだ「タンカー」てぇもんがあった。異人は乳酪無しじゃぁ日も夜も明けねぇって言うだろ、乳酪やら明かり用の油やら積む荷車だ。これを俺っちは「鏡」って呼んでいた。「鏡を抜く」から来たんだろうなぁ。
荷車車列の仕舞えにゃぁ必ず「カブー」てぇ赤ぇ車を繋いだもんだ。「カブー」は今じゃ皆黒くなっちまったけど、あの時分は利寛茶に塗られていて、ちょいとオツだったぜ。あれぁ車列差配様が小物と一緒に乗っていて、脱線しねぇかどうか張り番をする車だ。小物が二階の櫓に上がって何かあると、

「お頭様に申し上げます。只今二つ車目脱輪の模様にございます」

ってぇとさぁ大変だ、差配様はすぐに手綱を絞る。するとブレッキが掛かって大事にはならずに済むって仕掛けだ。



あれはそうさな、慶応八年が泰政元年に改まった年だったなぁ、今でも忘れようったって忘れられねぇや。俺の名がぁ江戸中に知れ渡った事があったんだぜあぁ。

俺が雇えられてぇた下谷駅逓所にな、その時分から青服の連中がしきりに出入りするようになった。あの時分の青服は複雑でね、共和政府ご出仕の奥州ざむれぇが殆どだったが、どうも江戸前のさむれぇとは息が合わねぇ。旧のお旗本に言わせりゃ、何ょ言ってやんでぇこの稗粥侍が、っとこうだ。一方の共和政府侍に言わせりゃあ、手前ら新吉原でひっくり反ってやがる間に薩賊を引かせたのは俺らだぞ、ってな具合さ。あの時分ってぇのはお旗本の御扶持安堵令前だったからそうだったんだな。

軍談物で有名になった第三次長州征伐てぇもんをおっぱじめるってんで、ついちゃあ轍道方によ、一つご造作願いたいって事だ。奥州諸藩の軍兵に大砲弾薬、機関砲に糧秣。運ぶモンなんざぁ幾らでもあらぁ。下谷に運ばれたそんな物騒なモンを轍道で品川まで運ぶ算段になったって訳よ。

一の酉が立つ頃だったかなぁ、俺ぁ助役様に呼び出された。助役様ったって俺っち賄方雇人としちゃぁ全うに顔を拝む事も無ぇ敵娼さ。

「ろ組雇人竹蔵、参ったか。大儀じゃがな、駅逓差配様のお召である故、身共と同道致せ」

ってさ、こっちゃぁ考えちまったよ。さっきも言ったが、差配様なんてったら雲の上のお人だぁな、その差配様直々のお呼び付けとあっちゃ、こりゃあどの道ロクな事ぁ無いなってさ、でも逃げられっこ無ぇから俺ぁ差配屯所へ向かったんだ。

「荷物賄方ろ組雇人竹蔵と申すはその方か。面を上げい。駅逓差配直々にその方に重大なるお役目申し付ける。」

そう言うと今度ぁ助役様が口を聞いた。

「竹蔵、聞けばそなたは大層な度胸免状を持つそうじゃな。一つそれをお役目に役立てんか」

そうなんだ。その時分俺は「肝っ玉か火の玉か」ってな具合に見られていたらしいや。いやいや、江戸っ子の向こう意気なんてぇものは大抵が見かけ倒しよ。上役様がそう思ってたのは、恐らく「に組」のへら半の野郎が余り判んねぇ事言うからパッパッと頭引っ叩いてやったのを聞いたんだろうよ。
で、そんな事思ってたら差配様がね、

「此度の長州征伐の一件は聞き及んでおるな。軍艦方よりの命で、下谷の硝煙倉から品川の軍艦へ火薬を運ばねばならん。そこでその方が荷車の天蓋に乗り、轍道沿いの見物を立ち退かせるのじゃ。しかと申し渡したぞ」

「あの、そんな事していってえどうなるんです」

「控えろっ、差配様に口返答致すでない」

「構わぬ捨て置け。差配が直々に説明して遣わす。良いか、荷車には硝煙が天井まで詰まっておる故、人払いをせなんだら大事になるであろう。もしも、もしもだ、硝煙を積んだ荷車の車列の傍らで煙草を呑む者がいたらどうなる。提灯に灯を入れる者がいたら何とする。その方は蒸気車、荷車諸共木端微塵と相なろう。そればかりでは無い。江戸の半分が消し飛んでしまうに相違なかろう。それ故その方が天蓋の上から人払いを致すのじゃ」

「のう、竹蔵、そなたも江戸っ子ならその胆力を自家薬篭の物としておってはならぬぞ」

あぁ、こう来られちゃ断れっこねぇや。俺ぁ覚悟を決めちまったよ。

「ではこれから一っ走り長屋へ戻って家の者に今生の別れを…」

「それには及ばん。既に特別誂えの車列が整っておる。その方はこれよりすぐ、お役目に付くのじゃ。良いな」

良いな、ったってさ。

「その方、家族はおるのか。ほう、老母に新造と子供が二人か。しからばその者らに申し遺す事があらば申せ」

って冗談じゃ無ぇや。初手から死ぬもんと心得てやがるのよ。

俺も若かったもんで、向こう見ずに引き受けちまった。駅逓所の前にもう停まってやがるんだ、その火薬満載の荷車の車列がさ。あぁ、ここが俺の死に場所だなってそう思ったね。

火の粉が入えっちゃいけねえってんで「稲荷」は一番仕舞に付いて後押ししてた。一番前の天蓋車の屋根に上がると、俺あ自棄のヤンパチ大肌脱いで尻を端折るとあぐらをかいたのさ。あぁ、こうなる事と判ってたら、背中の弁天様の刺青を出来上がりにしとくんだったなぁって思ったな、そん時。

蒸気車の野郎、例の「ブモウ」って笛吹いたら、ノソノソと走り出しやがったさ。その頃は下谷を出ると延々と焼け野原でね、日本橋の向こうまで見渡せたもんだ。焼け地をさらって地固めしてレェロを敷いたせいで、轍道は町家と道の間の何だか判らねぇ所を通っていた。だから蒸気車が来ると皆通りへ出て見物するんだな。こっちの気も知らねぇで、呑気なもんよ。

「しょっしょっ、聞きやがれ、俺ぁ下谷駅逓荷物賄方雇人竹蔵ってモンだ。おう、俺の下にゃあ山ほどの硝煙が積んであらぁ。こいつに火が入りゃ一巻の終わりでお陀仏だぁ、俺ばっかりじゃねぇ、お前さん方共々三途の川を渡るって事になるぜぇ、江戸の半分が消し飛んじまうんだ。俺と心中してぇと思ったら火を点けて見やがれってんだ、べらぼうめ」

まぁ、そん時の俺の晴れ姿ったらありゃあしないぜ、だってそうじゃねぇか、真冬によ、大の男が大肌脱いで荷車の上に大あぐら引っ掻いて、大通りの通行人睨み据えて見得を切っているんだ。見得切ってる当の本人はそう格好が良い訳でもねぇがな。何しろ北風がピューピュー吹いて来やがってよ、寒いの寒くねぇのって、水っ洟出て来やがるしよ。

「おうおう、そば屋さん、そこで火ぃ使ってちゃいけねぇ、すぐに火ぃ消して…何を、どこで商売しようとあたしの勝手だぁ、何を言ってやんでぇ唐変木め、おう、この荷車にゃなぁ、山ほどの硝煙が詰まってるんだい、あ、走って行っちまったよ。おおう、そこの人、煙草呑むなら向こうでお呑みよ、火が入ったが最期、今日がお前さんの命日だぜ、ン当に」

夕方で人通りも多い上に、煮売り商いする人が出てくる刻限だったからなぁ、俺ぁ最後まで叫び通しでよ、すっかり喉が駄目になっちまったい。こっちだって命が掛かってんだからなぁ、必死だったよ。涙まで後から後から出て来やがってなぁ、そんな事叫んでる内にどっかから火が入って十万億土の旅に出んのかなぁ、あぁ、出掛けにおっかぁ引っ叩いたりしなきゃ良かったなぁなんて考ぇてさ。

ようよう品川の駅逓についたなぁ、そうだなぁ日も暮れた後だったなぁ。品川の駅逓差配様自らのご出馬で出迎えに出つくれてなぁ、

「その方が下谷駅逓雇人竹蔵であるか。あぁ、大儀であった大儀であった。それお役目は無事済んだのだ、何を致しておる、早うこれへ降りて参れ」

ってぇけどさ、こっちゃあすっかり腰が砕けちまって立ち上がれねぇ。ようやく人の肩を借りて降りたんだが、

「その方の勤め振り、職掌柄とは申せ神妙の至りであった。最前テリカラフにて共和政府より達しがあっての、軍艦奉行よりその方に褒美を下し置かれるそうじゃ。畏れ多い事であるぞ。直ちに着物を着て、身共と同道致せ」

ってぇからこれはしめたモンだと思ったね。何しろ一つしきゃねぇ命を張ったんだからなぁ、俺ぁ大威張りだよ。差配様と一緒に馬車に乗って、行く先はってぇとこれが水道橋渡った先の水戸様のお屋敷でよ、その時分は共和政府が借り受けていたんだそうだが、長い廊下を渡って行くってぇと小広い座敷があってな、その真ん中に卓子があって四人ばかりのおっかねぇ顔したお人が座って何か談判してるんだ。

「下谷駅逓雇人竹蔵にございます」

って取り次ぎの人が言うと、戎服の細い顔の男がガッとこっちぃ振り向いたと思ったら急に豪傑笑いよ。

「ほう、お前さんが竹蔵さんか。既に聞き及んでいるが、今日の働き、どうも見事だったそうだな」

後で聞いたらそのお人ってなぁ、歩兵奉行並の内藤様だよ。例の京都見廻りの土方様だ。そん時はそんな事判らねぇけど、何となく物凄い殺気は感じたもんだから、こっちゃ馬鹿みてぇに頷くばっかりだ。俺は何だか怖くなって来てなぁ、早くこの場から逃げねぇと殺されるんじゃねぇかって思うようになった。

「気の毒をしたな。さぞかし寿命を縮めたんじゃねぇのかい」

正面の白い羽織を着た人がそう言ったんだけど、そのお人が共和国初代総裁、勝安房守様だったって訳だ。

「竹蔵、許せ。硝煙は内密の裡に堀川より品川沖の軍艦に運び込んでおる。その方が体を張ったあの荷車車列は囮だったのだ」

そう言ったのは海軍奉行の榎本様だ。

「薩長の敗残兵の一部が江戸市中に入り込んで諜者となっておる。そこで目を晦ます為にその方に一働きして貰ったと、こう言う訳だ。大体考えても見よ。車列一杯に積んだ硝煙を、徒士も付けずに昼日中人目に付く所を走らせられるものか。諜者が短筒一つ撃てばそれで仕舞いだ」

「あの荷車の中にはね、石だの漬物だのが満載だったのさ。気を悪くするな。お前さんの勇名は上がったぜ」

担がれた、あぁ、担がれた。良い恥かいたもんだと思ったけど、十六代様の後見人になってるお人に頭を下げられちゃ、こっちだって喧嘩に出来ねぇや。

三両、って言えば随分御大層に聞こえるけど、その時分の一両なんてのは以前の二朱位なもんでね、余り大それたご褒美じゃなかったが、その場で下し置かれた。年末の払いをしたらもう幾らも残っちゃいなかったね。

実を言うとその後俺は安房守様ともう一度会ってるんだ。泰政十九年の日英戦争で肥後の八代駅逓所に遣わされたんだが、ある日特別仕立ての車列で乗り付けた安房守様に声を掛けられた。嬉しかったなぁ、江戸っ子の誇りだったもんなぁ安房守様てぇお人は。