此道一筋・陸軍軍鼓方頭取に聴く軍曲軍謡の黎明




1919年、英明社中発行の日本共和国50周年記念誌「帥壇議説」には色々の人が寄稿している。綺羅星の如き将軍連。位を極めた元勲達。そして身分不問有能昇段と言う共和国の大原則を裏付けるかのように、それら貴顕に数倍する数の平民が、職人、農民、兵卒の別なく歴史の証人として自らの経験を物語っている所が、この書物の価値なのである。
陸軍軍鼓方と言えば、この本の出された享文年間には、饗応儀仗兵として僅か1中隊があったに過ぎない。その頭取を務めあげた権少祐箭内大掾太夫(晋八)による、共和国初期の軍歌事情である。



泰政十年の第一回国民総掛大談判の席で、勝総裁がこう仰いました。
「国家とは普段面倒見の良い大旦那である。腐った時分にゃあ半纏の一めえも下さるような大旦那である。その大旦那の家が火事にでも遭えばすっ飛んでって手を貸そうてえのが人情てえもんである」
ってね、町人言葉で勝様らしい物の謂いようでございましてね、あたくしゃ幸いにも末席で拝聴出来ましたのでございますが、さむらい出自の旦那方は皆しかめっ面でね、あたくし同様の元百姓町人は手を打って誉めておりましたよ。
あの時分に総裁政府のお偉い方が頭を抱えていなすった「国民統合」てえ事ですね。戊辰以来十年やそこいらで、武士と町人が融合する訳もなかったもんでございましょ。



江戸が丸焼けになる前、あたくしは芸者をしてた本所の姉ん所に転がり込んでおりまして、何、三味線箱抱えてウロウロしてたんでございます。小金に困らないで暇だけはある、なもんで音曲に興味のあったあたくしは、花川戸の文字ゆきさんって五目の師匠に付いて、謡や音曲を修練したんでございます。その内に姉と一緒にお座敷に上がって唄や踊りを披露するようになったんでございますが、そうしたら江戸で大いくさが始まりまして、身一つで下総の行徳へ逃げたんでございます。
慶応四年の暮れに江戸へ戻ってみればまあ、浦島んなった気分とはこの事でございましょうねえ。焼けてしまって何もない。お富士さんや秩父の山がそこに見えるんですから。浅草から品川まで見通せたもんですよ。
マゴマゴしてる内に共和政府の青服にとっ掴まっちまいましてね、あの時分にゃあ軍兵が足らないからその辺にゴロッチャラしてるヤツを皆踏ん捕まえて足軽の足しにするてえ噂でしたから、あたくしも逃げたかったんですけれども、腹は減ってるし、三味線箱よか重い物を持った事がござんせんでしたから、ええ、見事取っ掴まりましたんでございます。



紀尾井町の尾張屋敷借上げの兵隊屋敷に連れてかれましてね、あたくしが音曲に詳しいてえ事が判ると別の御小屋に通されて、そうしましたら今川町にいらしった助六さんてえ芸人がいましてね、知った顔があったもんだから嬉しくて、どうなるものかなあって話してましたら、顔中髭もじゃの、赤不動様のような異人が来ましてね、通辞が言うには、音曲の出来る者を集めて軍鼓隊を作るてんですよ。
長途遠征する軍兵を並んで歩かせるには音曲で調子を取る、横列突出や陣引きの時も音曲で合図を出すんだ、てえ説明がござんして。
それからてえものはあたくし共皆兵隊屋敷に〆込みを喰いましてね、何をするかてえと、毎日毎日中庭で異人の音曲を聴かされるんです。メリケン人の偉い人が一人、黒ん坊さんが四人ばかりで黄銅の喇叭や縦笛横笛、デンデン太鼓みてえな吊るし太鼓でもってトッピキテレツクと演る、で、あたし共はそれを聞いて覚えて、その内に黒ん坊さんから楽器を代って貰いましてね、夜まで修練したんでございますよ。異人の音曲でしたけれどもお賑やかな音曲で、考えて見ればあたくしが初めて出会った泰西の音曲は、あの時のメリケン軍楽だったのでございます。



泰政七年の第三次長州征伐の時に初号令が掛かりましてね。あん時までには音曲屋敷に集められた有象無象も皆メリケンの楽器を一通り扱えるようになっておりましてね、品川沖から軍艦に乗って大阪天保山。そっから徒歩行軍てえ事になって、来る日も来る日も演奏しながら歩いたんでございます。
所がね、大抵軍旅と言うモノは軍鼓隊が先陣になって、後から徒歩兵が縦隊んなってゾロゾロ参りますでしょ。そん時はあたくし共の後ろには一人も兵隊がおりませんでね、軍鼓隊の後ろに医療方のお医者様、その後は大坂で集めた芸人が大勢くっ付いて、そりゃあ珍無類な軍旅でございましたんですよ。
軍鼓隊が異国の音曲をドガチャガやって、軍医療方が沿道の病人を診てやって、芸人が近在の百姓衆を集めて即席の舞台で芸を見せて回る。何の事あない、旅周りの一座みたいなモンでございました。
一と月掛けて大坂から長州の国境まで来ますとね、もう粗方騒動が片付いた後じゃあございませんか。高杉一派の主だった者が腹を切って、後の人あ許されて、血を観ないで長州御安堵てえ事に落ち着いた後でござんした。あたくし共あすっかり拍子抜け致しましたねえ。これから大軍の先陣に立って、兼ねて修練の音曲で敵軍を平らげるなんて良い夢を見てえたモンですからね、イヤこれは話半分に聴いて下さいましよ。あたくしはそんな「今鍾馗」なんてえモンじゃあござんせんでした。



そもそもあの時分には、軍曲と軍謡が別れておりましたねえ。軍曲と言うのは謡いのない楽器ばっかりの事で、主に軍兵の行進に用います。泰西人の言葉で言う「マース」です。
軍謡てえのは、兵隊屋敷ん中で同隊の兵隊が、練兵明けや酒盛りの時に声を合せて歌う類いのモンでして、新謡俗謡なんでもありでした。つい最近までこの二つははっきりと分かれておりました。
その軍謡も最初の頃は士兵と農兵で分かれてまして、士兵は士兵で、あの詩吟てえヤツですね。「アアー、高いイ山からア低い山ア見ればア、どう見たってエ低い山がア低いイ」ってあれです。
農兵の謡うのは旧来の俗謡、土謡でございまして、節々の合いの手に「ホイッ」とか「ヤレーエエーエ」とか入る、至極のんびりした唄でございます。どっちにした所で近代軍の修練に役立たないばかりか、出自の違いで違う唄を謡っているようでは、共和国の国是である「国民一心」にそぐわぬ事になりましょう。



長州征伐が終わった後の事でしたが、ある日当時の頭取だった新山三郎介様とあたくしが軍監だった江川英敏様からお呼び出しを受けましてね、

「両名ご苦労である。立っておっては話にならぬ、それへ座れ。新山、率直に尋ねるが、日頃軍内において士農それぞれが水と油の如く分離致し、一心合一せぬ様を、そなた如何考える」

「懼れながら、当節の軍内を鑑みますに、士兵は士兵あってこその軍と考え、農兵は徒に士兵を恐れおる様子にてございます」

「先達て音曲顧問のパナール殿と話した折、こう申された。士農兵の一致団結無くして強大な軍は出来ぬ。それ故上役様方が苦慮しておられる時期なれば、音曲家である軍鼓方で出来る事を案出し実行させよとの仰せであった。どうじゃ、何か良い考えはあるか」

「は、旬日の裡にこれなる晋八と協議致し、御返事仕ります」

あたくしも巻き込まれてしまいましてね、新山様と知恵を出し合って、士農両兵に馴染む軍謡をこしらえて謡わせるってイデーを言上したんでございますよ。
ならばってんで、メリケンの不動様に相談したり、士卒一人一人に逢って御国の土謡を訊いたりして調べ事をしてましたが、三月経ってもこれと言う唄が出て来ないんですよ。例えば農兵が謡う唄でこれが良いってのがあっても士兵に聴かせると「民百姓の謡う唄、士兵の我らが唯々として謡えるかたわけ!」なんて怒鳴られますしね、士兵の謡う軍謡を農兵に謡わせても「そんな唄をわしらが謡うと、士兵に膾にされちまう」って言って謡おうとしないんでございます。
その内にしびれを切らせた軍監がお呼び出しになってね、

「そなたらには苦労を掛けるが、一度言い出した事である、何ぞ良い唄はあったか」

って聞かれましたんですが、これまでの事情を説明して難航しているとお話したんですよ。そうしましたら英敏様がね、

「我が事だが、亡父が領国で農兵隊を創り上げた時、こんな唄を謡わせて人心合一を図った。士兵も農兵も皆謡って大いに役立ったぞ」

と仰って、あたくし共の前で謡って下すった。それが、

「野毛の山からノーエ 野毛の山からノーエ 野毛のサイサイ 山から異人館を見れば お鉄砲担いでノーエ お鉄砲担いでノーエ お鉄砲サイサイ 担いで小隊進め」

そうでございます。今「大陸軍行進曲」の名前で知られる唄ですが、文久年間に英敏様の父御、江川太郎左衛門英龍様が組織した農兵隊の唄だったんでございます。
急ごしらえで譜面を作ってお雇いのメリケンさん、南軍の音曲兵に演奏させて見ますと言うと、元々の唄とは趣の違った馬鹿陽気な唄になっておりましてね、新山様もあたくしも首を捻ったんですがこれを聴いていた江川様や長州の大村様等がいたくお気に召したご様子でね、

「これは新しい曲風でありますな。大いに軍内に広まるでありましょう。また広めなければなりません」

あの堅物の大村様が顔の筋一本も動かさずにこう誉めておいででしたよ。
軍内で謡わせてみると、意外にも士兵に受け入れられましてね、農兵は元々自分たちの唄だと言う思いがあったのでございましょう、すぐに覚えて調練の行き帰りに謡って歩いておりました。本当にあの時は嬉しゅうございましたなあ。



泰政十四年の日向仕置の時でございますが、それまでの軍内の士農の不仲が雪のように消えて無くなる事があったんでございます。これは講談にもなりましたし、近年では幻燈が製作されましたから今申す事でもございません、有名な都城の退き口です。あたくしも軍鼓方として参陣しておりました。
二本松の林銑十郎様率いる晴峰隊二千余名が殿を引き受ける内に、付け入りで攻め込んだ名将ゴードン卿率いるインド兵に囲まれて隊長以下ほぼ全滅した時のお話でございます。
何とか囲われの部隊を救出せんものと、会津の佐川少将率いる越後軍。あと数町で味方の哨戒線と言う所で敵機関砲の滅多打ちに遭って前に進めなくなります。在陣三日目、佐川様はご自身の好きな謡曲「越天楽」を陣中から朗々と謡い始めた、配下の士兵が刀の柄を押えてそれに続き、農兵も手にした鉄砲を握りしめてうろ覚えながら唱和しました。援けに辿り着けない詫びに歌声を届けたのです。すると小雨を突いて味方陣地からも同じ「越天楽」を唱和する声が聞こえて来ました。僅かな人数、声も小さかったんですがね。ですけれども、あたくしの耳にもはっきりと聞こえて参りました。
あたくしはたまたま懐中にあった横笛で伴奏を付けると、敵陣の向こうの味方の声が少し大きくなり、それぎり聞こえて来なくなりました。銃声がしきりと鳴っておりましたし野砲の音もそれに被りましてね、横笛で砲の音に勝てるとも思いませんでしたが、あたくしも精根尽きるまで笛を吹きました。
銃声と砲音が止むと、味方陣地からの歌声は聞こえなくなりました。全滅したのでございましょう。
救援軍の陣地では、士兵と農兵の区別なく抱き合って泣いておりました。誰かが「悔しいのう、仇はきっと討ってくれようのう」と言うと、「はいんだて。きっと仇は討ちましょうれ」と間髪を入れずに言葉が帰る。その後の英軍の襲撃に次ぐ襲撃で大淀川まで退きましたが、その間士農兵共良く協力していたのを見まして、唄の力と言うモノはこう言う物なのだなあとつくづくそう思ったのでございます。



その話が津々浦々に広まると、「越天楽」と言う唄は日の本中に知れ渡り、士農合一のサンボルとなったのでございます。只今の共和国国歌はこうして制定に至ったのでございます。

「春の弥生の曙に 四方の山辺を見渡せば 花盛りかも白雲の 掛からぬ峰こそなかりけれ」



その後の日英戦争で士兵の殆どは倒れ、そればっかりか日本中の若い者が豆州なり薩摩なりで倒れてしまいました。
生残った者も、その後欧州大戦へ赴き、不潔な塹壕で、恐ろしい有刺鉄線の前で、毒ガスに巻かれ、機関砲の餌食となって消えました。
つい昨年、欧州戦線のマイイ・ノワイエと言う町を、前年のいくさで大損害を受けた会津軍が休養と再編成を兼ねて護っておりましたが、そこへドイツ軍が突出して来て、フランス民間人の退去の時を稼ぐ為、多くの負傷兵が自ら両足を縛って狙撃を続け、全滅した話は覚えておいででしょう。戦が終わって後、マイイ・ノワイエの役所では傷痍軍人を一人雇って、暮れ方の鐘の後で市役所のバルコンから「越天楽」を喇叭で吹奏しているんだそうです。フランスへの恩返しの為に多くの命を失ったこの国を忘れない為なんだそうです。



古い時代の者は既に世の一線には無く、これからの世を担う者は僅か十余年の間に無慮百万も失われました。
その褒美は何だったでしょうか。
九州の確保ですか。
共和国の揺籃期に力を貸してくれたフランスへの報恩ですか。
国民総掛りのいくさを二度までして、収支は果たして合っていますか。
多くの旧時代を知る人々が夭折した末に、新しい、もっと住みやすい、もっと平等な世が、本当に来るんでしょうか。
あたくしらしくもない物謂いですけれども、日英修好条約締結の席でその場のお歴々に問いたかったのは、この一つ事だけなんでございます。