日本(インチキ)風俗大系1


鬼ヤンコの事(週刊文潮1980年5月17日、連載記事「津々浦々・祭りを尋ねて」より)


秋田県菅浦。
羽越本線で酒田から北上すると、沿線の村々の様相は等しくうらぶれて見える。
菅浦は日本海に面した僅かばかりの平地に張付くようにして三十数戸の家々が肩を寄せ合う、半農半漁の寒村である。ホームは片面のみで建物は待合室だけと言う駅に降り立つと、目前には雄大な日本海が穏やかな表情を見せている。
これだけ自動車が発達している現在であるのに、駅前から延びる道路と言うか路地はどの道路にも連絡していない。昔から隣の村を訪ねる時は舟に帆を張って出掛けたそうだ。今は国道のバイパスが村のかなり上を走っており、急斜面を10分も登るとバス停があると言う。

全体にどこの村でも同じだが、特にこの村では共同体意識が強く、全ての家が「疑似家族」を呈している。親家、子家、兄家、弟家と言った具合に、横の連帯は非常に強く、またそうでもしなければとてもではないが生き抜けない厳しい土地柄であった事を窺わせる。

明治末期まで、この村には「ヤンコ」と言う言葉が生きていた。
農産物に恵まれず、漁労も時の運次第で全く稼ぎにならない年もある。と言う事で若い者は手を携えて余所に出稼ぎに行かなければ生計は成り立たなかったのだ。
「ヤンコ衆」とはそうした出稼ぎ者の事を指し、粗末な木の椀(ヤンコ)と箸だけ持って仕事になると聞けば酒田だろうが松前だろうが新潟だろうがどこへでも出掛けて行って稼ぐ男達の事である。

そして運悪く異境の地で亡くなる者もいただろう。故郷に帰る事無く死んでしまったヤンコ達は、旧盆8月13日に「鬼」となって浜に帰って来ると言う。
「鬼ヤンコ」とは祭りには違いないが、それは余りにも静かで余所者には違和感を感じさせる祭りなのである。

8月12日の深夜、村の少年達は大きな木の椀を手に捧げ、家々を訪れる。古くは10歳位から「ヤンコ衆」となって出稼ぎに出なければならなかったので、それよりも下の年齢、小学3年~4年生の子供がこれを勤める決まりになっている。
「ヤンコー、トボラーイ、ヤンコー、トボラーイ」と門口で言うと、中から大人が飯を椀に少しづつよそる。全部の家々を回ると椀は一杯になる。それを三宝に載せて捧げ持ったまま、無人の浜に供えて来るのだ。
砂で四角推のピラミッドを造り、その前に酒の入った徳利と飯が盛られた椀、そして塩を盛った皿を供えると彼らは一言も発さず(おしゃべりは禁止されている)黙って家に戻る。
以後旧盆が明けるまで浜は立ち入り禁止となる。
遠路「鬼」となって帰ってきた「ヤンコ衆」が、静かに故郷の飯が食べられるようにという配慮だという。

盆の間中、家々は門口に灯明を捧げ、決して消さない。
これは 帰る家のある「鬼ヤンコ」は良いが、家が絶えてしまったり離村して帰る家の無い「鬼ヤンコ」をも家族同様招き入れると言う、「生き延びた人々」の優しさなのだ。この風習を「招き鬼ヤンコ」と称する。

生きて行く為には余りにも厳し過ぎる環境。人々は身を寄せ合い、涙も笑いも共有して必死に生きて来た。だから自分達の共同体の為に命を落とした者を遇するのに、優しさと哀しみを踏まえた静けさを以ってするのである。

この行事が存続出来なくなるかも知れないと聞いたのは、南居呉郡吹泊村役場であった。観光課の大志太課長は言う。
「過疎化が進んでいましてね、再来年にはトボライ呼びをする子供がいなくなってしまうんです。今あの地区では小学校低学年の子供は一人しかいませんから、その子が5年生になってしまうと、祭りそのものが成立しなくなってしまうんです。何とかしたいとは思っているんですが、こればっかりはね」

伝統を守ると言うのであれば、高学年の子供であろうが他の地区の子供であろうが構わなさそうなものだが、これは単なる祭りではなく、小さな共同体の中で行われる慰霊祭なのだと言う事を思い出した。
「出来なくなるのなら出来なくなっても良い」
帰りの特急電車の快適な座席で、菅浦の老人の言葉をゆっくり噛み締めた。