日本(インチキ)風俗大系 -5-


三瓶棋のこと
(週刊文潮2003年3月2日、連載記事「世界史の中の日本」より)

去年、千葉県佐原市にある旧家の納屋から「三瓶棋」が発見されたと言う報道があった。そのニュースだけならば騒ぎ立てる事ではないのであるが、今回は完全な状態の「指南書」詰りゲームマニュアルが添付されての発見であり、世の研究家達の注目を集めたのは記憶に新しい。



「三瓶棋」とは日本発祥のゲームで、将棋とは似て非なる物である。文政末期に長崎の蘭学者によって造られたと言われており、その創始者は高野長英、いや庭坂順洞である等と言われ、定説はない。

当初はそうした知識人達の手遊みであったこのゲームが、大坂を経て江戸にまで流行したのは天保の始めとされている。湯屋の二階は入浴後の町人達が集うサロンとなっており、様々な遊具が備えてあるのが普通であった。将棋、碁に混じって「三瓶棋」があれば、「あすこは粋な湯屋だぜ」となるのである。

天保の反動政治期に極端な蘭学者の刈り込みが行われ(異学の禁)、何でも泰西渡来の文物は破却が定法とされた。町人達が興味本位で遊んでいた「三瓶棋」も例外ではない。

勘の良い方はもうお分かりだろうが、「三瓶棋」とは「三兵棋」の事である。知識人達は遠い西洋の大戦略家、下賎から身を起こし一国の帝王にのし上がり、遂には紅毛南蛮の国々を切り従えた一代の英雄、即ちナポレオン・ボナパルトを偲びつつ、彼の地の新戦術である「三兵戦術」をゲーム板に再現しようと試みたのである(註:化政時代の日本人に最も知られた西洋人はナポレオンであった)。創始者が高野長英ではないかと思われているのは、彼が「三兵答古知幾(三兵タクチキ=タクティクス)」の翻訳に尽力したと言う理由からである。

当然こうした西洋を匂わせる遊びも規制の対象となり、「三兵棋」を「三瓶棋」と読み替え、中国の故事になぞらえて細々と命脈を保ったのである。一説にはその読み替えを版元や湯屋に薦めたのは時の町奉行、遠山左衛門尉景元(所謂遠山の金さん)であったと言われている。

1840年、アヘン戦争が勃発し、清国は大敗を喫した。この一件は日本の知識人をいたく刺激した。今にもイギリスは清国を植民地にし、余勢を駆って博多に攻め入ってくると言う噂が実しやかに流れた程である。
これを契機として市中では多くの軍学者が様々な流派の戦術を教える私塾が盛んとなった。とりわけ情報が入りやすい長崎や大坂では危機感が強く、何時かイギリスと戦争になるとしても、西洋の軍跡を学んでおくにしくはないとして、西洋砲術(高島)、射撃術(飯中)等が台頭して来たのである。

ここにおいて「三瓶棋」は完全に復権した。何故ならば塾生に「三兵戦術」を学ばせる為には、このゲームが最適であったからである(佐久間象山は「三瓶棋」を「児戯に等しい」と斬って捨てたが)。歩兵騎兵砲兵の役割、利点、欠点が網羅されているこのゲームは単なる遊戯ではなくなり、戦術教本の代用となって幕末を迎え、明治維新と共に忘れられるのである。



それでは具体的に「三瓶棋」とはどんなものであろうか。今回発見されたゲームマニュアルを解読した結果を以下に記す。

基本的にコマは4種類である。歩兵、騎兵、砲兵、総兵(又は惣大将。王将に相当)。今回発見された「三瓶棋」のコマは良く出来ていて、木彫り漆塗りの親指程の彫像となっている。土台の裏には「砲兵・Artillerie・アルテイエリリエ」とか「歩兵・Infantrie・インフフアントリイエ」等と細筆で書かれており、戦術と同時に用語も学べる造りになっている。

歩│歩│歩│歩│歩│歩│歩│歩│歩 ─────────────────  │騎│ │ │ │ │ │騎│  ───────────────── 騎│砲│騎│砲│総│砲│騎│砲│騎


基本的な陣立ては上図の通りであるが、指南書には、この陣立てに囚われる事なく、 自由に状況を創り出して欲しいと書かれている。



○歩兵は、右斜め後、左斜め後以外の全方向に1マスづつ進める(ニ歩のルールはない)。
○騎兵は、前後左右に際限なく進む事が出来るが、敵のコマに突き当たるとそれ以上は進めない。間に味方のコマがあっても素通り出来る。
○砲兵は、前後左右に1マスづつ進める。前後左右3マス以内の敵を攻撃出来る。攻撃する場合は移動が出来ない。攻撃する相手との間に幾ら敵味方のコマがあっても問題ない。
○総兵は、全ての方向に1マスづつ進める。



将棋と「三瓶棋」の大きな違いは、兵種によって倒せる敵が決まっていると言う点であろう。将棋のように、何でも敵のコマを捕れると言う訳ではない。

○騎兵は歩兵を倒す事が出来る。

当時の戦術では、大抵の条件下では歩兵が騎兵と渡り合う事は無謀とされていた。密集して突撃する胸甲騎兵の群れに歩兵が対抗しようとするならば、頑丈な方陣を組んで射撃と銃剣で対抗しなければならない。そうしても方陣が突破される事は良くある事で、1890年代に野戦築城と機関銃が行き渡るまで、こうした歩兵に対する騎兵の優越は崩される事がなかった。

○歩兵は砲兵を倒す事が出来る。

当時の野砲はコストが高く、戦場に必要数が常に揃うとは限らなかった。小数の砲で散弾を発射して仮に100人の敵歩兵を吹き飛ばしたとしても、101人目の敵歩兵が野砲陣地を蹂躙するであろう。国民国家の成立により、歩兵のコストは著しく安くなったのである。

○砲兵は騎兵を倒す事が出来る。

騎兵の弱点は運用の硬直性にある。一度突進を開始したら、その途中で向きや速度を変える事は先ず不可能であり、遮二無二敵を蹴散らして敵陣を占領するか全滅するまで停止出来ない。また如何に訓練された馬であっても、敵野砲の轟音に脅えて算を乱し、突撃自体が壊乱するケースも良くあったのだ。

○総兵は全ての敵を倒す事が出来るが、逆にこれを倒す事が出来るのは歩兵だけである。



同種の兵科同士が戦う事も可能である。
例えば敵歩兵に味方歩兵が攻撃を仕掛けると、敵歩兵のコマは捕る事が出来るが、攻撃を仕掛けた味方歩兵のコマは相手に捕られてしまうルールになっている。これは装備や士気が拮抗している同兵科同士が渡り合うと、双方に甚大な損害が出る為、両方損と言う事でお互いにコマの交換をする訳だ。
この一見無意味なルールも応用次第では有用な戦術となり得る。例えば敵歩兵がピケットラインを張っている所へ何とか穴を開けたいが、騎兵のコマが残り少ない場合、味方歩兵のコマを犠牲にして敵陣に突破口を開き、そこから騎兵がなだれ込んで、一挙に勝敗が決まる。そう言った静から動へ、スリリングでスピーディな展開が楽しめるのが、この「三瓶棋」の特徴でもあるのだ。



敵総兵を捕らえた場合、或いは敵の三兵科のうち、いずれか一種(例えば全ての騎兵)を全て捕らえれば勝ちである。



こうして盤面で遊びながら新しい戦術を学んで行った彼ら塾生達は、その後このゲームをどう評価したのだろうか。明確な証言がないので何とも言い難いが、一つ言える事は、後の馬関戦争、薩英戦争を通じて、「三瓶棋」が教える三兵戦術が既に過去の遺物と化している事を思い知ったに違いない。

平原で大部隊が堂々の横隊を造り、飛び来る弾丸をものともせず軍鼓に合わせて分速七十二歩で接近し、マスケット銃の十字砲火を浴びせた後銃剣を付けて突撃する-産業革命の進展によってそうしたナポレオン時代の戦争は、西洋では既に通用しない時代に突入していたのである。炸裂榴弾や後装式小銃、機関銃や鉄条網の普及によって、戦場は一層非情で冷酷な殺人現場と化していたのである。超人的な勇気や武人の誉等とは縁を断った広大な墓苑と化していたのである。


隆羽軍司(たかは ぐんじ)。元防衛庁戦史課勤務。