日本(インチキ)風俗大系 -8-
民族的トラウマ その5
(週刊文潮2005年10月28日、連載記事「世界史の中の日本」より)
古代ローマの母親は、言う事を聞かない子供を「門口にハンニバルが来ていますよ」と言って叱った。
これは第2次ポエニ戦争の最中の前211年、それまで4度に亙ってローマ軍を大敗させた名将ハンニバル率いるカルタゴ軍が、ローマの城壁近くまで迫った出来事に由来する。永くローマ人の精神的外傷となった事件であった。
このように民族の負ったトラウマは習慣や言回しに記憶される場合が多々存在する。
天下分け目の関ヶ原合戦時、西軍に与した薩摩・島津家は、勝敗が見えた時点で東軍に包囲された。その包囲を脱出する為、薩摩軍は一団となって敵中に飛び込み、窮鼠よく猫を噛んで突破に成功するのである。尤もその折、全軍の7割とも8割とも言われる兵を失っている。薩摩人が気合を入れる時に発する「チェーストイケセッガハラ(こん畜生、行くぜ関ヶ原へ)」はこれに由来するのだ。関ヶ原はこのようにして薩摩人の精神的外傷を証明する言葉となった。
政府審問儀有此。
日本史上最後の内戦である西南戦争は、武士が専ら精神力を以ってする旧体制と、農民兵が物量を以ってする新体制の間の戦争であった。だから政府軍は簡単に勝利できたかと言うとそうではない。
日本陸軍の土台は農民の2、3男であった。と言う事はつい最近まで農民であった者達の集団であり、農民であったと言う事は武士を非常に恐れていたのである。その時代の銃は元込め式であるとは言え単発であり、一発発射すると次の射撃まで非常に時間が掛かった。再装填に手間取っている間に銃弾を免れた薩摩兵は「チェーストキェーッ」と白刃を閃かせて斬り込んで来る。政府軍兵は銃を捨てて逃げ惑うと言う場面がそこここに見られた。
困惑した政府は白兵戦に投入できる撃剣に強い戦力を欲したが、軍内部にはそうした部隊は存在しなかった。そこで政府は新たに撃剣の達人を募集したのである。
その結果応募して来たのは、元会津藩家老佐川官兵衛を筆頭とした旧会津藩士達であった。佐川官兵衛は鳥羽伏見から会津戦争に掛けてその勇猛な闘い振りで一度ならず薩長軍を振るえ上がらせ、「鬼官兵衛」の渾名を欲しい侭にしていた。人格高潔、自らに厳格で他者には柔和な、会津人士の見本のような人物であった。
政府としては、応募は有り難いが昨日まで朝敵であった者共をすぐさま陸軍に編入する事は政治的に難しい。そこで彼等は軍人としてではなく、警視庁召抱えの形を取り、「東京警視庁抜刀隊」として九州の戦場へ派遣する事にしたのである。
「抜刀隊」と言う行進曲がある。外山周一作詞。雇フランス人ルルー作曲。冒頭のメロディは、歌劇「カルメン」第2幕で奏されるスペイン軍の行進曲にヒントを得たと言う説もある。
我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ
敵の大将たる者は 古今無双の英雄で
それに従うつわものは 共に剽悍決死の士
鬼神に恥じぬ勇あるも 天の許さぬ反逆を
と続く。この行進曲は軍のものでは無く警察の行進曲であった。だから戦後に至っても自衛隊によって受け継がれているのである。
所で、少し考えればこの歌詞はかなり妙である事に気付く。それは
①:「我」とは誰か?
②:どうして「天の許さぬ反逆」を企てた程の悪党である敵将を「古今無双の英雄」と誉め、またその臣下を「剽悍決死の士」であると持ち上げるのか?
と言う点である。
それはこのように説明が付く。
①:「我」とは抜刀隊に応募して来た旧会津藩士の事を指す。元々孝明天皇の信任篤かった会津中将松平容保は、京の治安に尽力した功で官軍の証明である錦旗を授かっている。詰り会津こそが真の官軍であると信じて凄惨な闘いを強いられた旧会津藩士達への、政府からのせめてものリップサービスなのである。言葉には元手が掛からない。
②:敵の大将は言わずもがな西郷隆盛であり、この時点で陸軍大将は日本に一人しかいなかった。それは即ち敵将西郷の事ある。同時に敵である薩摩の事もある程度持ち上げておかなければならない事情が政府側に存在した。政府の下を離れて郷里薩摩へ走った政府高官は一部に過ぎず、この時点で尚大多数の薩摩閥が政府内で重職にあった。その彼らを慰撫する為のせめてものリップサービスなのである。言葉には元手が掛からない。
さて、東京警視庁抜刀隊は編成を終えると小倉に上陸し、九州各地を転戦して多大な戦果を挙げ、多いに面目を施した。就中隊長である佐川官兵衛は、会津戦争で戦死した(朝敵と言う事で埋葬も許されなかった)、或いは藩ぐるみ転封された不毛の斗南の地で餓死し凍死した藩士達の名を書いた襦袢を常に着、その上から戦胞を着て戦闘に臨んだ。
「元会津藩家老佐川官兵衛! 会津の恨み、思い知れ!」
流石の豪胆な薩摩兵も、「鬼官兵衛が来た」と恐怖に駆られて壊乱し、敗走する事もしばしばあったそうである。
こうして薩摩は二つ目の精神的外傷を得た。今でも鹿児島の一部地域では子供を叱る時、このように言うのである。
「カンベドンナ、クッ(官兵衛が来るぞ)」
隆羽軍司(たかは ぐんじ)。スィーツ評論家。