羽根鉄道の写真を掲示します。
古いものが多いようですが、順次新しい写真も公開して行きます。


fig.1 半田川駅


昭和57年11月3日。
半田川駅は5番線を使用している。
この頃には既に駅全体が改築され、昔の面影はない。
入線中の列車はキハ301+キハ302。
この日は半田川菊祭りが開催されていたため、例外的に2輌編成である。


fig.2 新郷駅


昭和54年4月10日。
新郷駅は交換可能駅であった。
しかし実際には列車交換に使われる事は滅多に無く、この頃まで細々と生き残っていた貨物列車が稀に交換する程度であった。

fig.3 新郷駅駅舎


昭和54年4月10日
新郷駅は村外れにあった。駅のすぐ裏手は田圃。駅舎は開業当時のままであった。
当時この駅は羽根本町と並んで有人駅であったが、訪問直後の昭和55年に無人化された。現在はホームしか残っていない。


fig.4 羽根本町機関区


昭和54年4月10日
沿線最大の駅、羽根本町には機関区がある。現在、無蓋車が停まっている辺りは駐車場と化し、正面に見える庫も取り壊されて叢となっている。
庫の右側に少し見えているのは、キハ101型。

fig.5 羽根本町機関区


昭和56年10月18日
羽根本町機関区前から羽根行き列車を見る。
列車はキハ101型。後ろに見えているのは一時借用中のキハ201型である。201型は後にキハ300型の運用開始と共に古巣の鴻岡鉄道に戻って行った。


fig.6 羽根本町駅ホーム


昭和54年12月1日
この年は雪が来るのが遅かった。12月になっても良く晴れた日が続いていたのを思い出す。
羽根本町のホームを半田川側から見る。停車中の列車はキハ101。

fig.7 キハ102


昭和57年11月3日
羽根本町機関区で、休車中のキハ102を見上げて。
同車はこの後間もなく解体された。


fig.8 羽根駅


昭和54年12月1日
終点の羽根駅である。
かつては木材、薪炭の積み出しのため、写真右手に広大なヤードを持っていたが、当時でもご覧の通り。機回し線すら既に外された、実に寂しい終着駅であった。
現在ヤード跡はスーパーになっている。

fig.9 キハ101


昭和56年10月18日
木陰-合会間を走るキハ101型。
この日の列車はなぜか混んでいた。どうやらどこかで運動会を行っていたようだ。


fig.10 最終日の貨物列車


昭和55年9月24日
貨物列車が廃止される日は大雨だった。
合羽を着て線路伝いにロケハンしていたら、夜行の疲れが出たのだろう。合会駅の壊れかかった待合室で雨宿りをしていたら、いつの間にか眠ってしまった。
何かの気配で飛び起きると、果たして下り最終貨物がゆっくり通り過ぎて行く所であった。 牽機はDB201だった。
未だに悔やまれてならない。

fig.11 キハ501試運転中


平成13年5月1日
中屋敷南方を快走中のキハ501型。
羽根鉄道の新しい顔として、西日本急行鉄道から購入した新鋭車両。
2001年5月21日から営業運転に入る。


fig.12 沿線点景① 新郷の社


昭和56年10月18日
歩き疲れて線路脇の小さな社で一休み。
祝日には国旗を掲揚するのであろう、ささやかな旗竿がしつらえてあった。藁屋根の祠を目にしたのは初めてであったので、珍しさから撮影したものだ。もう夕方で薄暗くなってきた。

fig.13 沿線点景② 鶴野川橋梁


昭和56年10月18日
建設中随一の難工事であった鶴野川橋梁である。
日本では珍しくなったポニートラス橋で、頑丈な造りが売りである。
真中の二連のトラス部分は、第一次世界大戦の戦利品で、ドイツ製。青島から接収してきたと言う曰くつきの代物。


fig.14 鉄道ピクトリアリズム2001年6月号表紙



この号では、地方私鉄の抱える難問を、車両・施設の近代化でどう解決していくのかに焦点を当てている。羽根鉄道についても、30年来変わらなかった運行形態を全面的に刷新した事で、大きく取り上げられている。
写真は新郷-曽原間を走るキハ501型。

fig.15 車庫の片隅


昭和56年10月18日
羽根本町の車庫の片隅には、いつでも変わったものがとぐろを巻いていた。ワム1型。羽根鉄道開業時に用意された大正生まれの 古典貨車である。翌年訪れた時には、既に空き地になっていたが。


fig.16 羽根本町駅舎・雪


昭和59年3月11日
現在の羽根本町の駅舎は2代目である。初代は昭和9年の大火で焼失しその跡に欧風の瀟洒な駅舎が建てられた。大柄な割には出入口が南東隅に小さく開けられているのみである。明り取りの窓は戦時中に塞がれてしまっており、待合室は何となく薄暗かった。
この年は大雪の当たり年。積雪量も多かったが、雪の止み間がないのも珍しかった。

fig.17 キハ101、快走


昭和54年4月10日
羽根本町-羽根間を快走するキハ101。この時点では主力はキハ101と鴻岡鉄道から移籍していたキハ201であり、既に車籍が入っていたキハ300型はどうしたわけか「予備車」扱いであった。いずれ、それがありがたかった事は事実なのだが・・・。


fig.18 沿線点景③ 丘に沿って


昭和54年6月1日
木陰から中屋敷までの区間はゆるやかな丘陵の裾を走る。珍しく車内から収めた一枚。殆どブレがないのは速度が非常に遅かったためと記憶している。

fig.19 昔日の東奥本線1


昭和36年12月2日
半田川-湯之谷間
その時代の東奥本線の長距離旅客列車は、宮城機関区や幸島機関区のC60が牽引していたが、竹崎発着の区間列車や支線への直通列車は、竹崎機関区のC57やC58が担当していた。これは冬の朝、通勤列車を引いて半田川を発車するC58。


fig.20 昔日の東奥本線2


昭和36年12月1日
雪雲が姿を見せ始めた師走の小駅、東一宮(現・新竹崎)で対向列車待ち合わせの為停車中のC57が牽引する宮城行き普通列車。無風で煙はどこまでも真っ直ぐに昇って行った。今では新幹線の停車駅となり、このような長閑な構内風景は見られない。


fig.21 昔日の東奥本線3


昭和38年6月17日
湯之谷-磐舘白田間
電化を目前に控えた東奥本線で最後の活躍をするC57。画面には写っていないが架線柱は既に立ち並んでいる。この年10月のダイヤ改正で、東奥本線から蒸機が一掃され、変わってED71が颯爽と走り始める。


fig.22 キハ1000系


平成13年7月14日
2001年は羽根鉄道が大変革を見せた年であった。この年の初めまで主力であったキハ300(旧国鉄キハ10)の置換え用に西日本急行から購入したキハ500が入線。踵を接するかの如く、JR直通快速列車用に同社から入線した優等気動車がキハ1000系である。
車内のレイアウトはご覧のように「現代水準」に充分達しており、利用者には大喝采を以って迎えられた。今後も活躍が期待される。
写真左:東奥本線湯之谷駅にて。鉄道ピクトリアリズム2001年8月号掲載。
写真右:公開試運転中の車内。レイルガマン2001年8月号掲載。


fig.23 ハ3の車内


平成14年8月4日
羽根本町車庫
開業当時用意された「大正型客車」の生き残り。DB+古典客車を使用した保存運転が来年から開始されると言うのだが、そのお披露目であった。キレイに復元されていたが、椅子は本当に「布団張り」だったのだろうか?


fig.24 今は昔


昭和29年11月11日
昭和28年、大阪の森製作所にて改造されたDB101。
小さな車体に大きな期待を担って登場したが、実際に使用して見るとそれ程の性能を持っていた訳でもなかった。現場のOBに当たった所帰って来た言葉は「1号機よりは多少マシ」だった。
この絵はDB101登場当時、帰り車の空の客車を牽いて、秋空の許羽根に向かう下り列車である。新郷-曽原間。現在ではこの辺りは高速道路が交差しており、今更ながら50年の歳月の重みに気付かされる。


fig.25 曽原駅


昭和13年ごろ
曽原駅構内
羽根本町にある「鈴木写真館」所蔵になる、戦前の羽根鉄道の様子である。
この直前まで、殆どの列車はガソリンカーで運転されていたが、前年には中国大陸で戦争が始まっており、あらゆる場に物資統制の網が被せられる時代に差し掛かろうとしている、そんな時代の風景である。
写っている機関車は5号。汽車会社の手になる優秀な機関車で、戦後かなり遅い時代まで羽根鉄道の主力機関車であった。