1、機関車





1-1 形式1号(1、2)
    1、2(1915日車本店)



1915年、日車製の地方私鉄向け小型機関車である。
前後輪なしのC型で使いやすく力もあり、末期の1967年まで一線で活躍した。
下記の3号機が入線するまでの間はこの2両で運用しなければならなかったため、検査中は国鉄(当時鉄道院)から1850型などを借り入れる事が多かった。

イラスト左は開業当時、まだ真空ブレーキとバッファー、螺旋式連結器を備えた姿。
右は空制化された1930年以後の姿で、側面のパイピングが賑やかになっている。




1-2 形式3号(3)
    3(1920 Orenstein & Koppel)



第一次世界大戦終結後急増した貨物需要に対応するため、急遽購入された「助っ人外人」。
本来は汽車会社か日車に発注する予定だったが、輸入業者からドイツ製機関車がダンピングされる情報を聞き付けた当時の役員はこの話に一も二も無く飛びついた。
実際非常に優秀な機関車で、1967年に廃車されるまで改造らしい改造を受けていない。僅かに連結器やブレーキ装置のアップデートを施されたに過ぎなかった。
左は購入当時の姿。ナンバープレート下の赤いメーカーズプレートが目立つ。右は戦後の姿で、密閉化された運転台とコンプレッサーが目立つ程度である。




1-3 形式5号(5)
    5(1924汽車会社)



汽車会社製造になる典型的な「大正型機関車」。1923年の関東大震災で倍増した貨物需要に対応する為入線した。
この機関車も優秀なもので、低質炭を使用せざるを得なかった戦時中の一時期を除き、故障らしい故障もなく、1970年の廃車時まで第一線で使用された。
左は入線当初。右は戦後の姿で、空制化、コールバンカーの嵩上げが目立つ程度である。




1-4 形式DB10(101)
    DB101(1953森製作所)



動力近代化を目論んだ羽根鉄道は、1953年に初のディーゼル機関車を導入した。
新製では無く、森製作所において北武鉄道近江崎2号(1899 Bagnall)の足回りを再利用した改造DLであって、使用目的は本線の貨物列車牽引よりも羽根~羽根本町間の貨車入換作業に供する積りであったようである。
発動機の出力が弱く、営業的に成功とは言えなかったが、当初の目的である入換用の他、朝の通学ラッシュ時に気動車+客車+DBで輸送力を発揮する運用があった。これは増結に使用する客車の一部に貫通ブレーキが装備されていなかった為で、補機と言うよりブレーキバンの代りであったもののようである。




1-5 形式DD250(251)
    DD251(1965新潟鉄工)



開業以来使用されてきた蒸気機関車は、1960年代にもなると老朽化著しく、交替の機関車の手配が必要となった。既に1953年には前述のDB101が入線しているが、出力等の点で従来の蒸気機関車を置き換えるには問題があった。
貨物輸送は、薪炭、木材の不振で60年を境に急速に減少し始めたが、代って化学肥料の受け入れや農産物の出荷の為、当面の間は貨物列車の運行は存続する。その為に羽根鉄道は中型ディーゼル機関車を必要とし、新潟鐵工所に発注した。
1966年に入線。この頃には貨物列車は短く、本数も隔日一往復まで減少していた。従って予備車両の必要は無かった。1971年に本機が故障を起こして半月間運用に就けない事があったが、代替輸送にトラック便を使用する事で簡単に解決が付いた。一説によれば、羽根鉄道が廃止を決意したのはこの事例を重く見たせいだと言われている。
羽根鉄道廃止後、本機は首都圏の臨港鉄道に売却された。



開業から少なくともガソリンカーを導入する1930年代まで、羽根鉄道の列車は、貨物列車に1~2両の客車を連結した「準混合列車」で運転されていた。
戦前の純農村地帯では旅客流動自体が殆ど無く、収入の9割近くまでが貨物輸送によるものであった。戦前期の写真を見ると、長々とした貨物列車の遥か後ろにポツンと客車が連結され、その後ろにも貨車が繋がっているような編成ばかりである。
鶴野(たづの)川が奥州山地に入り込んだ最後の盆地の中を行くため勾配の少ない線形で、小型のタンク機関車であってもかなりの輌数を牽引出来ていた事が判る。
この薪炭輸送は戦後遅い時期まで羽根鉄道の経営の根幹を為すものであり、プロパンガスや都市ガスの普及でそれらが役割を失った時、同時に羽根鉄道もその役割を失ったのだと言えよう。