3、客車 4、貨車
3-1 形式ハフ1(1、2、3、4)、ロハ6(6、8) ハフ2、3、4→越戸ハフ10、11、12
1~4、6、7(1915名古屋電車製造所)
羽根鉄道の開業に際して用意された客車は、2軸の3等緩急車4両、2・3等合造車2両の計6両で、1915年に一括納車された。
この車両のスタイルは当時の地方私鉄で良く見られたもので、その形態は当時の国鉄標準型客車であった、ナハ22000系、ホハ12000系の流れを汲んでいた。それらの幹線用客車を地方私鉄向けにアレンジしたのが、これらの大正型客車の一群だったのである。
窓下の等級帯や屋根の鉛丹色などは、当時の国鉄客車のデザインそのものであった。
2等は詰め物の入ったロングシート、3等は板張りの背ずりの低いクロスシートで、1940年頃までにはロングシート化されている。
羽根鉄道で1928年から2等級制を廃止し、3等モノクラスとなったが、その際ロハ6、8は2等の車内をそのままに3等車として使用した為乗客には好評であったらしい。
これらの内、ハフ2、3、4は、1943~44年に掛けて関東の越戸鉄道(現北武鉄道)へ譲渡され「上本宿ハフ10、11、12」となった。同社のキハ20、21を譲受した代りの措置で、1955頃までボールドウィンの蒸機に牽かれて活躍していたので有名である。
左から、ハフ1、ロハ6の開業当初の姿。右側は戦後の姿で、屋根の明り取り窓は埋められ、空制化されているのが判る。右端はロハ8→ハ8の最末期の姿で、シングルルーフ化されて四角い印象になり、木骨鉄皮、デッキは開き戸になっている。
他の気動車、客車が、空色とクリームに塗り替えられる中、ハフ1型だけは最後まで茶色一色のままであった。早晩廃車になるものと予想されていた為である。
3-2 形式ハフ5(5、7)
5(←鉄道院ハ2427←鉄道院ロ492 1892 Metropolitan Vickers)
7(←鉄道院ロ550←奥州鉄道せに303 1894 新橋工場)
乗客の漸増に備えて1917年に国鉄から購入した2軸客車。いわゆるマッチ箱客車の一派で、ハフ5は大阪から、ハフ7は地元から転入した。
特にハフ5は1892年英国ヴィッカーズ製で、文化財の域に達している。
ハフ7は地元奥州鉄道で使用された中等車がルーツで、私鉄統合で鉄道院の所有になった後も暫く2等車のまま使用されていた。イラスト左端は2等車当時の姿。
左から二番目は羽根鉄道で3等車として使用されていた頃の、ハ7である。
1943年の羽根町の大火でハ7は車体を焼損し、折から車軸折損で休車中であった僚車ハ5から車体を譲り受けた姿が、その右隣。ガラスが貴重で、窓に桟が入り、終戦までは車内照明が無かったと言う。図は戦後、蓄電池を下げて電球を灯していた頃の姿である。
その後ハフ7は外板に鉄板を張った「ニセスチール」車体となり、屋根の補修、座席の取り換え等の延命措置を施され、1965年頃まで増結用として活躍していた。
3-3 形式ハフ10(10、11)
10、11(←越戸鉄道キハ10、11 1930 日車東京支店)
戦時下の旅客輸送の増大に対応する為、1943~44年に関東の越戸鉄道から転入した元ガソリンカー。
キャブオーバー型単端でありながら後方にも運転装置を持つと言う珍しい構造の車両で、恐らく試作品を安く買い叩いたのではないだろうか。
羽根転入時には木炭ガスボンベを床下に積んで自走させる計画だったらしいが、肝心のウォーケシャ製エンジンが半壊した状態であり、エンジンを降ろして付随車化された。
戦後も気動車に戻ることなく客車として整備され、激増した旅客を捌くために大車輪で活躍した。
上図左は越戸時代。越戸鉄道比志線(北武鉄道庄野線の一部)は一本線のみで、連結運転を前提としていなかった為、簡易連結器を装備している。上図中は羽根鉄道入線当時の整備が行き届かない姿。窓ガラスがあるように描いてあるが、少なくとも1947年頃までは十字窓にガラスは全く入っていなかった。
1955年に既述のマッチ箱同様、外板に鉄板を張った「ニセスチール」車体となり、1971年まで在籍していた。
3-4 形式ハフ21(21)
21(←キハ10 1936 日車東京支店)
羽根鉄道が初めて自社発注した小型ガソリンカー、キハ10を戦後付随車化した二軸客車。
キハ10形式は3両在籍したが、1959年までに中型気動車と交替し、21に改造された10を除いて廃車、売却された。
図は近代化改装を受けた1963年頃の状態で、判りにくいが窓枠はアルミサッシ化されている。室内灯は同時に蛍光灯化されており、牽引する気動車より余程立派な室内であった。
1971年まで在籍し、その後は北海道の幌信炭砿鉄道へ売却された。
4-1 形式ワフ1(1、2)ト1(1、2)
ワフ1、2(1915名古屋電車製造所)
ト1、2 (1915名古屋電車製造所)
創業時の貨物輸送の大半は羽根から搬出される薪炭であった。その輸送用の貨車は通常国鉄の貨車を充当し、羽根鉄道で所有する貨車は「ブレーキバン」として使用するか、もしくは社線内貨物用に最小限の数で事足りた。
ここに上げたワフとト以外に、国鉄ワ1と同様の木造有蓋車が存在したと聞くが、台帳上は存在が確認出来なかった。何れも1965頃までは現役で使用されていたが、その後はバラスト用に改造されたト以外は羽根本町の車庫裏に放置されていた。
羽根鉄道沿線に限らず、戦前から戦後しばらくの間、特定の産業の存在しない地方では旅客の流動は非常に小さかった。
1両の客車を連結させておくだけで大体用が足りる程度の乗客しかおらず、1日5往復の旅客列車だけで用が足りる程度の旅客しかいなかった。
それでも羽根窯と言う特有の窯を使って作り出される高級木炭と言う売り物があった為に、羽根とその周囲は潤っていた。一概に他の地方と比較する事は難しいだろう。