私の意見
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大学入試に使っても良い?(1999.6.29)
幾何教育(1999.5.23)
問題文の条件(1999.4.18)

大学入試に使っても良い?

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大学の先生に、入試についてうかがう機会が何回かありました。 良く出る質問の1つのパターンが、 『これこれを使って解いた場合、点数はありますか。』 です。 具体的には、『Cayley-Hamilton は使って良いか?』 『ロピタルは使って良いか?』などです。 もちろん明快な答が帰ってくるはずはありません。 西の方の複数の県で、使える物は何でも使えと指導しているように 聞きました(伝聞なので違っているかもしれません)。 数学教師としては、 気になる部分ではありますが、最近次のように考えています。
具体的に、行列A, B が互いに逆行列になることを証明する問題で 考えてみましょう。 これを生徒に、AB=E だけ示せばよいと指導するのは、 教師が勉強しているのであって、生徒に勉強させていないのではないか、 と考えているわけです。 我々は、AB=E だけだと不安になるわけですが、そういう気分を伝えるのが 我々の仕事ではないかと思うのです。 AB=E でよいかどうかを判断するのは誰でしょうか。 生徒が不安にならないように、教師が保証を与えていますが、 本当は生徒が判断しなければならないのでしょう。 それを学習する機会を我々教師が奪っているのではないでしょうか。 では、教えない方がよいのだろうかというと、 面倒ですが、理解できるなら教えた方がよいと思います。 生徒のわかり方を我々教師が矮小化しないためにも、 いろいろなことを知らせることは重要だと思います。 ただ、教えたことを使ってきたとき満点をやるのかどうか 場合によって変えるとなると、生徒は混乱するだろうし、 教師を信用しなくなるかもしれません。 面倒ですね。でも学問という物は数学でさえ、 割り切れる物でなく、議論が必要なのではないでしょうか。 大学入試が高校の数学教育をゆがめているという議論は 良くありますが、どのようにゆがめているのか、 本当はどうするべきか、 高校教師が考えるべきことは多いのではないかなあ。

幾何教育

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予告していた中学の幾何についてです。
今回気になったのは、次の3つのパターンです。
(1)三角形ABCと三角形DEFが合同ゆえ、角B=角F.
実際には、この三角形はともに直角二等辺三角形です。 結果は正しいのですが、対応関係が崩れていて、 二等辺であることを注意していないので、 正解とは認められません。
(2)理由なしに、結論に直接結びつく条件を挙げ、 結果として合同だとか、辺や角が一致するなどと 主張する。
二等辺三角形の底角が等しい程度なら問題はありませんが、 三角形の合同条件で、辺が等しいことを示すとき、 その辺が等しいことを示す手順が、
角が等しい→円周角が等しいので対応する弧(弦)が等しい
のとき、説明なしに辺AB=CD等と書かれたら、 わかりません。
別の例では、「明らかにその三角形は二等辺だから底角が等しい」 と主張していますが、底角が等しいことは容易に証明できて、 その結果二等辺三角形であることがわかる問題でした。 底角を使わずに考える道はありましたが、かなり 面倒です。
このような解答を見ると、結論から合うように答を作っているとしか 思えないのです。 これが事実なら、幾何教育は本来の目標を達していないだけでなく、 数学教育に害を与えていますね。
(3)詳しい理由を書きすぎて、 本当の推論の道筋が見えなくなっている。 例えば、直角二等辺三角形の頂角から対辺に下ろした垂線により、 元の直角三角形が二つの直角三角形に分割されることですが、 この分割された三角形が二等辺三角形であることを十行にも渡って 書いてあり、それで力つきていました。

文章題で、何を変数にしたか書いていないことがよく問題になりますが、 このようなことさえできない子供たちに、一様にいわゆる幾何の証明を 書かせる教育は意味のあることでしょうか。
高校に入ってきた生徒はよく、文章題が苦手だ、幾何は嫌いといいます。 最初は式の計算をやっているので、 出来はよいのですが、途中に関心が薄く、 結果が合っているかどうかだけ気になるようです。 そんなとき、生徒には、数学はすべてが証明だと言っています。 自分がわからないでどうする。人に説明できなくて意味があるのか。 出した問題を解いて欲しいのではない。 出した問題が解けるようになったかどうか見たいのだ。
証明の本質は式変形でも教えられると言うとなかなか 賛同を得ることはできませんが。
幾何教育は重すぎるのではないかなあ。 今のようにいろいろ書かれると、見なければいけない こちら側も苦しいので、次のように問題をわけたらどうでしょうかねえ。
(i)直感力、知識力、構成力を付けるためには、 理由はいらない。証明すべき仮の事実の羅列を行う。
(ii)理解力、表現力を付けるためには、 仮の事実の羅列の間を、 事実の羅列(倫理的順に箇条書きにより)によって埋める。
少なくとも、証明の道を自分で決めてその線で考えていくことと、 生徒の証明に見られるように平気でうそをついていく態度は 全く違うと思います。結果がよくても途中がおかしい場合に 評価されることなど高校以上では無い(穴埋めを除く)のだから、 理由の括弧を付けてその中が空欄になっている方が、 よほど好感の持てる解答だと私は思いますが、 他の方はいかがでしょうか。


問題文の条件

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今年の春休みの課題を提出させて見ていたのです。
いつものように、計算だけ、説明不足の解答が多く、 わからなかった問題やできなかった問題に赤字で解答が書いてあっても、 解答を写しただけで、考えておらず自分の言葉になっていない解答が多くありました。
もっと考えろ、言葉を書けなどの一般的な注意は与えるのですが伝わっていないのだなあ。 どうしたらいいのだろうと考えながら生徒の課題を見ていたのです。 そこで一つの事実に気づきました。
a>0 のとき a+1/a≧2 を証明せよという問題です。
生徒に解答には、相加平均相乗平均という言葉は書いてあっても、 a>0 という条件はほとんど書いてありません。 意識していないのでしょう。 そこで、授業に行って、この条件が無いと成り立たないのだが、 反例を作ることができるかと聞いてみました。 誰も答えることができませんでした。
何かを使って考えるということは伝わっていても、 どうしてそうなるのか考えるということは伝わっていないように思います。 このような態度が、数学を暗記科目化しているのではないのかなあと思いました。
もっと難しい問題ではよくあるのですが、 この「条件をはずしたとき反例をつくって見よ」 という与え方で生徒の意識が変わっていくのではないかと思った次第です。 先生方はどう思いますか?

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