中年教師の言いたい放題

数学教育実践の実像   
1999年11月17日に,理学部数学科学部生向けに話したときに 作成した原稿です。ここでの集大成ですね。
2時間という時間を貰っておきながら話があちこち飛んだので 話さなかったところもだいぶあります。 後で読み直すと、結構いいことを言っているなあと思い^^; ここにあげることにしました。 言いたい放題とかなり重なっています。 オープンにするには危ないことも書いていますが、 話した後から消えていく話し言葉の例として、寛大な気持ちでお許し下さい。

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CONTENTS
数学
NEW! 数学のテストと「忘れた」
複素数平面の軸のラベル
ベクトルや複素数
生徒の力
出題傾向に合わせること
数学の授業とウソ
鳩ノ巣原理
作図はフリーハンドで
方程式の解
受験問題集の解答は配るべきか
受験問題集のレベル
文系の育て方(数学の視点から)
学校で数学を学ぶわけ
帰納法は演繹法か?
「数学の解答って、白黒がはっきりして好き(嫌い)」?
「できる先生の授業は分からない」?
数学の論理と日常の論理
「教科書を教えるな。教科書で教えよ。」の裏
文化としての数学
数学の価値
どうして数学を勉強しなきゃいけないの?
同様に確からしい
教育
NEW! 公教育と私学
無理して教えても・・・
H15全国理数科教育研究大会の話
考査直前不振者補習
上位校を受験する
わかることと教師の目標
発見,一般化そして学力低下問題とおもしろさ
質問が少ないと嘆く前に
ワルの口癖
遅刻したとき叱ること
あきらめること、あきらめないこと
「やる気がある」ことについて
茶髪はいけないか
生徒との直接対決を避ける
不言実行
平等原則は無条件に真か
罪を憎んで人を憎まず
悪びれない子供達
勉強ができることと学力が伸びること
教えるということは分からせるということ?
話を聞かないと嘆く前に
教室へはいつ行くべきか
教育技術としての「教えない」こと
雑感
NEW! EGA(E'le'mants de ge'ome'trie alge'brique)
あってはならない?
インターネット
美談について
官僚の考え方
最近の生徒と勉強
生徒の理解
大学の授業
国公立大学合格者数の予想
世間とは
学習指導要領は本当に従うべきもの?
自分のことを棚に上げる
多数決は絶対か
進学校が進学に有利なのはなぜ?
プロとアマの違い
生徒と一緒に学ぶということ
全体主義
雑談をしよう
教師は子供好きでなければならないか
教師の「依って立つところ」
面白い話とは

数学のテストと「忘れた」

CONTENTS

先日、数学のテスト監督で30分くらいずっと教室内をまわっていました。 手が止まったまま、動かない生徒がいました。 こんなとき、終わってから声をかけると、 「やり方を忘れた」という声がよく返ってきます。 そんなことを考えながら歩いていました。

忘れたらどうにもならないことが多い教科もあるから、 生徒は納得しているのだろうか。 少しでもやる気のある生徒は、何かヒントを求めて手を動かし あがく。そのときの方向を与えるのが数学の授業の中身である。 覚えなければならない事実はごくわずかで、その事実を 論理でつなぎ合わせることが解くということである。 しかし解答をまねるだけの生徒がいかに多いことか。

考えろよ、と言いたいが、言ってもわからないよなあ。

ともかく、数学のテストができなかった理由が、「忘れた」 というのはいただけない。 「気づかなかった」となって欲しいものだ。


公教育と私学

CONTENTS

先日の朝日新聞に「教育産業」のシリーズがありました。 その終わりに投書をまとめてのせていました。 全体的に現実と合わない感じがするのですが、 その中で元大学教授が感覚的に書いたと思われる部分 「・・・大都市では私立高校への入学が求められ、 さらに負担がかかる。地方では私立校も少なく、 地域格差も広がる。・・・」について、反論しておきます。

進研の出している合格者数調査によれば、 全都道府県で国公立大学の合格者数が多い順に高校を 並べてみると、その中に半分以上私立高校が入っている所は、 3つしかない。東京、神奈川、大阪である。 この3つでは10校のうち8校が私立であった。 しかしほとんどの県は1校程度であり、1校も入っていない県も多い。 東大の合格者数に限定しても、一番多く合格者数を 出している学校が私立なのは、約半分の県にすぎない。 田舎の公教育を担っているのは公立高校である。 嘘でも何回も宣伝されると、 ドイツのゲッペルスのときのように、教師や周り、 さらに教育委員会などもそうなのかと思いはしないか心配している。 「どういう疑問には何を調べるべきだ、 どういう資料からどんなことが読みとれる。」ということも 合わせて考えて欲しい。結論だけの報道には眉につばをつけるべきだ。


EGA(E'le'mants de ge'ome'trie alge'brique)

CONTENTS

昔大学時代に読もうと思って挫折した本です。 先日「グロタンディック-数学を超えて」山下純一 日本評論社を 読んでいたら、上記の本がwebからフリーで落とせると 書いてあった。うれしくなってすぐ落としました。 ものすごく難しいので、また挫折するだろうけど、 昔の情熱を思い出してしまいました。

複素数平面の軸のラベル

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複素数平面で、軸に「実」と「虚」と書けといっていたら 生徒に「x」「y」じゃダメなんですかと聞かれました。 教科書にそう書いてあるからだというんです。 すっごっく抵抗があるんですけど。 だって、実軸、虚軸とは言いますが、 x軸、y軸って言いますか?

無理して教えても・・・

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ある日の授業で、演習の説明を調子よくやっていたが、 ちょっと引っかかって分かり易い説明が見つからない。 それでもノルマがあったので先へ進んだが、 そのときを境に机に突っ伏す生徒が目立った。

それまでは顔を上げていたのだから、 聞く気はある。 どうしようと悩みながら授業が終わるのを待つのが いつものことだったが、今回は授業後、 わからないまま続けるのは意味がないと強く思った。 いくらノルマだからといっても、まずいよねえ。 本当に難しい話をしているときは別だけど、 わかって欲しいと思っている話が伝わらないときは 出直しましょう。少なくともいったん打ち切って、 違う話にするべきだと思いました。

無理矢理聞けというのは無しね。 わからないからといって騒がないのは、 教師に敬意を払っている証拠なんだから。


ベクトルや複素数

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先日複素数平面の授業でドモアブルのあたりをやっていたが、 ちょっと早いと思いながら、進研模試の過去問で、 正多角形の頂点を問う問題をやってみた。 生徒の反応はすこぶる良かった。

ベクトルや複素数平面は理解・定着が悪いと いわれているものである。 教科書の問題をやっていても、抽象概念が続くか、 具体的でもとってつけたようなものが多いせいで 雲をつかむような感じなのではないかなと思った。 そんなときは、最後にできることや、入試などで 要求される水準を見せてやるのも良いと思ったのである。


あってはならない?

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最近またミスが起きたとき、有ってはならない事故であった、 という言葉が聞こえてきます。 現場を知らず、判断材料も持たない 馬鹿がまた言ってらあと思うのは少数でしょうか。

原発のようなところでも放射能を100%出さないということは できませんし、毒物、劇物を扱う工場でも100%環境に 排出しないということは化学的・物理的に不可能です。 インターネットのメールもわずかに届かず行方不明となることも 有りますし、人間の行為が入ればなおさらのことです。

アメリカの航空機事故では、個人や企業を免責にして 原因を追及します。 例えば、間違いをなくす努力が10倍になると、 間違う可能性は0.1倍になるという関係でしかありませんから、 どこで折り合いをつけるか、取り除ける原因はあるかと 考えていくのが将来のためになります。 当然、強く要求すれば、達成水準が大きく後退し、 費用も倍々になっていきます。

「あってはならない」というのは、くさいものにふたをし、 ほとぼりを冷ます以外の何物でもないように聞こえてきて、 とてもいやな思いをします。


インターネット

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10月の頭に福岡で行われた全国理数科教育研究大会 に行っていきました。 西鉄グランドホテルに泊まったのですが、 電話線で自前のコンピュータを インターネットにつなぐサービス(無料)があってびっくりしました。 室内電話のコネクタをパソコンのモデムにつなぐものです。 速度はモデム経由なので32Kbpsと遅いのですが、 LANでつないだかのような便利さでした。

普段はモデムを使わず、LANでつないでいるので、 やりたいけどどうするんだっけ、面倒ならいやだなあ、 と思っていましたが、杞憂でした。


H15全国理数科教育研究大会のはなし

CONTENTS

全体の講評の中で文部科学省初等中等教育局教科調査官達が 話していたことを取捨選択して書いておきます。 完全な記録ではありません。

私が今考えていることと重なる部分があったり、 気にしておいた方が良いかなという部分を抜いてみました。

問題が生じたときは、「基本に返れ」が大事である。 基本とは、生徒の現状を認識すること。 今行っている授業を見直すということ。
理数科の生命線は課題研究である。 良いものができない等と嘆いているが、 支える体制ができているか? 生徒の資質を育て上げられているか? 授業中にテーマに結びつくようなものが 扱われているか? と考え直す必要があるのでは
東京都が、大学入試に対応した体制をとったと発表しているが、 それに対して新聞の調査では 子供に「興味関心を引き出す」教師が一番求められている。

課題研究の生徒のレポートに
・問題が問題を呼んだ
・先生より・・・優越感を感じた
・自分の中にしみこまない限り理解したとはいえない。

数学の自律性を尊重しよう。
・教師と生徒は互いに説得し合うもの

今の授業は、解説→演習の繰り返しで、 生徒はつねに受動的である。 これではおもしろさを発見できない。 多くの場合、生徒は本当の数学を求めている。 この「解答+演習」の形の授業を受けたくなかったと ある大学の数学科学生のアンケートで多くの学生が 答えている。 変えなければいつまで経っても同じである。 少しずつ変えて欲しい。

多くの教師にとって、わかった!という原体験は 輪読であろう。これに関して
・内容について生徒のわかり方に固執しよう
・相互作用(対話、討論)を活性化しよう。

授業研究をぜひやって欲しい。
・共通の課題が明らかになることが多い。
・協議までやって欲しいのだが、できないのであれば 授業を見せ合うことから始めよう。
・可能なら、中学の先生を呼んで来ると 良い話ができるだろう。


考査直前不振者補習

CONTENTS

今年,久しぶりに1年生でやってみました。 試験前1週間で急に計画したので, 国数英3教科各1回でした。 私が最初だったので,黒板に 「しゃべるな!」,「集中せよ」,「拘束は○○〜△△の1時間」 と書いて始めました。 しゃべるな,と集中せよは夏休みにおこなった学習合宿の受け売りです。 もともと,赤点を取る生徒は家庭学習時間が極端に少なく, 質問しようとすることもほとんど無いので,補習とはいっても 自習させています。易しい課題プリントは用意しますが, 課題の内容よりも上の3つのポイントが効いたようでした。 「こんなに勉強したことはない」, 「分かったよ」,等の声も聞こえてきましたし, 質問もかなりでました。また,時間を延長してやっていく生徒も いました。 他の教科の先生にも評判が良かったようなので, 次回もやることになるでしょう。

美談について

CONTENTS

2002年5月18日にTBS世界不思議発見で, 第2次世界大戦終結直後のドイツでチフス患者が激増した町で 治療を続けた日本人医師,肥沼信次の生涯を放映していました。 薬もほとんど無い中,シラミだらけの家の往診の後,本人も チフスにかかり,薬と医療を拒否し,自宅で死んでいったということについて 黒柳徹子など出演者が言っていたことが気になりました。
ほとんど無い薬を自分に使うのではなく, 他の患者に使ってくれと言って死んでいったことを, なかなか出来ることではない,と評価していたのです。
献身的な医療を行ったことはもちろん評価できますが, 彼のあの町での価値は,医療を施すということだったはずなので, 自分がチフスにかかることや, 自分の治療より他人を優先させることは極力さけるべきであったはずです。 戦前の「滅私奉公」という言葉が頭をよぎりました。 絶対の為政者がいて,その他大勢は全体がうまくやっていくための 使い捨ての駒のような感じがします。

官僚の考え方

CONTENTS

2000年2月19日に放送されたプロジェクトXは, 日本で最初に風力発電を行った町の話でした。
ふるさと創生基金を使って,風力発電の3度目の挑戦に, アメリカ製の巨大風車を輸入しようとして, 前例がないからと当時の通産官僚にストップをかけられたという下りです。
「選挙で選ばれた町長じゃだめだ。行政職の君が全責任を取れ。 誓約書に君が判をつけば,許可しよう。」というところです。
役人ってそんなに偉いの?判断するのは行政の長である町長ではないの? と感じました。田中真紀子が人気があるのは, 我々下々は「政治家や官僚を信用していないのだ。判断してくれなくて結構。 知ってることを洗いざらい言ってしまいな。」と思っていることに行動で応えているからです。
この役人が,自衛隊の高官だったら,戦前の中国東北部に駐留していた関東軍の暴走が 第2次世界大戦の 日本の参戦の直接の原因だったことを考えても,恐ろしいことです。
もう時代は専門家に任せておけば安心だという状況ではないのですよ。

上位校を受験する

CONTENTS

田舎の学校では,東大や京大は自分には関係ない大学だといった風潮があります。 教師が「受からないのは受けないせいだ。受けてみれば2・3人は受かるもんだ。」 と言い続けることは大事なことです。
ところで,以前有名校の入試問題を廊下に張っておいたことがありました。 3年生向けだったのですが,2年生のときそれを見て, 「何とか解けそうだ」と思って,それ以来受験目標として頑張ってきたと, 生徒から言われました。 問題を見る機会を作っておくのも良いアイディアだったなあと思ったしだいです。

最近の生徒と勉強

CONTENTS

最近の生徒は,自宅学習の習慣が無いので, 授業時間が減っていることも考え合わせて, 宿題を出すことは良いことだと思っていました。
最近,その宿題用のプリントを自習にした授業でやらせてみました。 小学校と同じで,「出来たらもってこい。丸をつけてやっから。」 というあれです。 そのときの反応は結構良かったのですが,本当はこれくらい 自分で教科書,参考書,問題集を見て,やるべきことです。 わからなければ聞きに来なければいけません。 本当にお膳立てをしないと出来ない,裏を返せば, お膳立てをすれば出来るように思いました。
また,最近試験直前に問題集を使って,教科書の例程度の事項を 確認しているのですが,これも役に立っているようです。
手をかけて,育ててから,手を抜いていくというようなことまで 高校でやらなきゃいけないのだろうか。 勉強の基本がどんどん出来なくなっていっているように思うのですが。 もっとも,基本が何かと言ってもよくわからないですけどね。

生徒の力

CONTENTS

受験体制に入った3年生からの質問を受けていて思うのですが, 答えに頼り切っていて,自分で考えないようです。 全体を見て何をいおうとしているのか, 具体的にどういうことなのか,考えないのですね。 ちょっと考えるヒントを与えると,できることが多いのです。 模試の偏差値が高い学年なので,基本的な技術力はかなりあると思うのです。 試行錯誤をやらなかった弊害かなあと思い, 間違いをいとわず,問題を見てどのように考えていくのかという話を しています。具体的に調べてみるとか, 仮説を立てて検証するだとか。 そして,自分で考えついてもおかしくないだろと付け加えています。

出題傾向に合わせること

CONTENTS

都立高校で進学重点校に指定された高校の数学の教師が 大学の入試の傾向を調べて進学対策とすると得意げに(違うかな?) 言っていました。 今までは確かにそうやってきましたが,それで生徒に力って つくんでしょうかねえ。 教師が勉強してもしょうがないと思うんですよ。 教師の仕事は,生徒が勉強して,力をつけることだと思うんですね。 だから,最新の大学入試問題の出題傾向を調べることより, 時代に対して不偏な問題を探す・作るという努力の方が ずっと価値があると思うのです。

生徒の理解

CONTENTS

授業をしていてびっくりしたことがあった。 剰余定理を紹介し,解説,証明,練習と進んでから 整式P(x)を2次式(x-1)(x+2)で割ったときの余りを 求める例題に進んだ。 その解説をしているとき, P(1)やP(-2)を計算することは出てくるのだが, これが余りだという認識が出てこない。 だから,問題文の条件も使えない。 わかるといった生徒は5%である。 ほんの数分前にやっていた内容である。 しょうがないので,剰余定理を見ればわかると言ったのだが それでもわかると答えたのは15%であった。
授業でやったのと同じような問題を試験に出しているが, 同じようには思えない,やったことがない,見たこともない, 何を言っているのかわからない問題だという生徒もいたので, こういうことなのかと考え込んでしまった。
知識が他のものと結びついていかない。 広く考えることが出来ない。
同僚といくらか議論して,実験することにした。 例えば上の剰余定理の計算練習の後で,「結果は?」 の後に「結局何がわかったの?」と聞いてみよう!

大学の授業

CONTENTS

九州大と東北大へ進学した卒業生から,数学の話を聞いた。 共に数学は結果を使えればいい学科である。 単位を取るのが難しい。 何を言っているのかわからない。 最近の学生は勉強しないと言われるが, 高校で教えた印象から言うと, むしろ大学の先生の教え方に問題があるように思う。 わからせようと少しは努力しているのだろうか。 いや,学生がわからないと思っている現実を認識しているのだろうか。 わからなくても使えるような枠組みを明確に与えようとしているのだろうか。
出来る先生はちゃんと教えているという話も聞く。 大学も高校と同じなのかなあ。 ともあれ,大学の先生方にはしっかりやって欲しいものである。

わかることと教師の目標

CONTENTS

生徒がわからないとき, どう説明しようかと教師は考える。 生徒の中に理解する素地が無いときは, 理解する形式を与えなければならない。 「定義に戻るんだよ」や「絶対値は符号を強制的に+に変えた数」などである。 我々がわかるという形式を提示する必要がある。 生徒に素地がある場合は,我々の説明が生徒の要求にあったときは 「あっそうか。わかったもういい。」という反応が返ってくることが多い。 同じ内容の質問でも生徒の感性にぴったりする説明は異なっているので, なるべく多くの経験が教師には必要である。 最近まで教師の仕事はいかに「あっそうか」と言う反応を引き出すことだと 思っていたが,生徒を育てるという観点で考えると, かみ砕いて「あっそうか」というより, 難しいままで「あっそうか」というようにするのが教師の目標ではないか と最近考えている。

数学の授業とウソ

CONTENTS

先日のSEMの臨時例会の飲み会で絶対値の教え方の話題が出ました。 最近の中学では,符号をとったものというようには教えられていないようで, とても残念です。 もちろんこれは間違っていますが, 間違いの程度は無視できるもので, 感覚的にはとても分かり易いものです。 教科書にも載っている基本的な性質 |a|=a(a≧0), -a(a<0) を言い換えたものにすぎません。
正確なものを与えなければならないと思いすぎて, 正確さにこだわるあまり複雑になれば, 直感的な理解が得られず, 自分の頭で判断せず教師に可否をゆだねてしまうような 感じ方(答案)を増長させるのではないでしょうか。
また,ほんの少しの間違いや問題ならば気づく生徒もいるでしょうし, その気づくという行為こそが我々の究極の教育目標です。
生徒が育つことが我々の仕事であり, そのためにはウソも役に立つということですね。

発見,一般化そして学力低下問題とおもしろさ

CONTENTS

教育実習生と次の問題について話をしていました。
「関数y=(x-3)^2-1のグラフは,関数y=(x+1)^2+2のグラフをどのように平行移動させたものか。」
グラフを描いた後で何も教えずとも生徒に聞いてみれば,わかる子もいるだろうし, その後どこを見たか聞けば,図形としての頂点の重要性も気づくだろうと話をしたら, 教育実習生は, 教科書の解答を教え(込む)ことだけで手一杯で, 考えたこともなかったと言っていました。
私の授業は,わかるとか,おもしろいと生徒から(もちろん全員ではありません^^;) 評判がいいのですが,多くは, ここにあげたようなちょっとした事実を教え込まないことによります。 これを時間をかけてしつこくやると,小学校の発見学習になるのだろうと思いますが, それはだめですね。時間をかけずに1,2分でさらっとやるのが良いようです。
我々教師は, この発見のあとの一般化した事実を使って解くことを要求しすぎるのではないかなあ。 それが問題演習ということなのだと思います。
数学は解ければおもしろいとよく言います。 公式に当てはめただけでもおもしろいですか? 本当は頭を使って,「あっ,そうか!」となったときがおもしろいのではありませんか? 問題演習は,本当に基礎技術が定着したかどうかを確認するためのものですから, それを直接生徒に見せてはどうでしょう。
例えば,平方完成の練習で,いくつかやった後, x^2+x+1 のようにxの係数が2の倍数でないものを, (1)難しいぞ(2)出来るようになったかな(3)2の倍数じゃないぞ など,与え方,生徒の様子によって問いかけを変えながらチェックすれば, 要求されていることがきちんと生徒に伝わり,達成感,満足感も生まれますよ。
大げさではなく,ちょっとした教師の与え方で生徒の気持ちは変わるのではないかなあと 思います。

鳩ノ巣原理

CONTENTS

「巣穴が8個で鳩が9羽いれば, 必ずどこかの巣穴には2羽以上入っている。」 という主張が鳩ノ巣原理です。 部屋割り論法とも言います。
人類が獲得した演繹を除く論証形式は 背理法,帰納法とこの鳩ノ巣原理の3つしかありませんが, これだけが高校までの数学で正規には登場しません。 数学オリンピックではよく使われるのに, もったいないなあと思っていたら,良い問題がありました。 東工大の問題です。
3次方程式が 「αが解ならα^2も解である。」という性質を満たすとき, 解の絶対値は0または1となることを示せ。
鳩ノ巣原理を使うと非常にきれいに解けますよ。

質問が少ないと嘆く前に

CONTENTS

生徒の質問が多い学年は成績が良いとよく言われます。 質問に来る生徒を増やすためには何が出来るでしょうか。
良くできる子には,知的好奇心をくすぐるようなちょっとした 発展的な話をちょっとだけ盛り込んで授業を行えばよいのですが, 全体の底上げに必要な普通の子やちょっと出来ない子の質問を 引き出す方法はあるでしょうか。
たいていの場合,疑問点を持っていても聞きたいという欲求まで 気持ちが高まることはありません。気持ちの問題なので, 教師の対応としては,いかにバリアの垣根を下げるということが 大事です。
「つまらない質問で悪いんだけれど」といいながら聞いてくる生徒は 多いものです。 聞きに行けば,丁寧に答えてくれる。 どんなことを聞いても,馬鹿にしたという感情を抱かせることなしに, 真摯に答える。何が問題なのか,よく聞いてから答えようと努力する。
これらは当然のことですが,答えてその場で理解させることが出来ないと いけないと思うのは良くないかもしれません。 大事なのは,質問のリピーターを作ることです。 あの先生に聞けばわかるかもしれない, 何か得ることがあるだろう, 聞いてもらえればもやもやしているところが 少しははっきりするかもしれないなど, 期待を持たせるだけでも良いのです。
もう一つ,授業を持っている先生に質問をするのが 当然あるいは礼儀だと思っている生徒が多く, 「○○先生いらっしゃいますか」といってくる生徒が 多いのですが,質問なら「数学の先生いらっしゃいますか」など, 教科の先生と指定して聞きに行くのだよと言ってあげましょう。

作図はフリーハンドで

CONTENTS

1年の数学の授業でようやく2次関数に入りました。 グラフをフリーハンドで書けといったら怪訝な顔をするのですが, 当たり前ではありませんか?
中学では初めて出会う対象に慣れるためにも, 正確に書くことが大事なので, 方眼紙などを使って目盛りをとり, きちんと書くことが大事です。 これは描く対象が具体的であることとも合致します。 しかし,例えば高校では文字を多用して 一般の性質を抜き出して考察していきます。
y=a(x-p)^2 と書いたとき,p の符号によって頂点の 位置がy座標の右に来るのか左に来るのかが決まりません。 でも,適当にどちらかにして書きます。 適当にしてはいけないときもあります。 (x-1)(x-a)<0 を解くときは, aと1の大小を決めないと解が決まりません。
高校以上の数学は,イメージを持つことがとても重要です。 目盛りを書かずに必要最小限のチェックをかける練習と考えると フリーハンドでグラフを書かせるこということは,とても良い 練習になると思うのです。

方程式の解

CONTENTS

|2x-1|=3の解は,x=2, -1 ですが,「,」は何でしょう。 私は「と」と読んでいます。「または」ではないでしょう。 もちろん「かつ」でもね。

ついでに

解は集合なので,{1,1}={1} です。 代数方程式の解が2つある状況で,「異なる」と無ければ, 重解の可能性があると強く指導しているのですが, 集合としての解では説得力がありませんね。 今年の3年生のクラスでは,ほとんどの生徒が間違っていました。 やっぱり代数方程式の根でなければ, (x-1)=0 と (x-1)^2=0 は区別しにくいよなあ。


受験問題集の解答は配るべきか

CONTENTS

定期考査が近づいて,演習で使っている問題集の, 授業では解答していない問題の解答が欲しいと 言ってきた生徒がいる。 このようなとき,解答をやるべきかどうかは よく話題になるところだ。
昨年シニアの解答を渡さなかったことについて 考える所があり,演習授業のあり方とも絡んで 一考の価値があると思われる。
生徒が何故解答をほしがるかというと, 試験に出たとき,無用な減点を受けたくない。 解答を見ないと安心できない。 わからないから解答を見て勉強する(覚える)。 であろう。これでは力が付かないと, いくら口を酸っぱくして言っても聞き入れられることは難しい。 昨年と今年の演習は,左の問題は原則全て授業で扱い, 授業で扱わない問題は原則試験に出さないとした。 しかし,そこをやっていた生徒は昨年結果が良かったよとも 言っておいた。問題が出来ることを要求しないので, どうしても答えが欲しいという欲求は少なくなったが, 少なくない生徒が範囲外の問題にも手をつけて, 質問に来ている。問題を解く練習として,答えがない場合 時間はかかるが, 試行錯誤すること, 方針を決定し自分の考察を深めていくこと, きちんと表現することなど, 一皮向けるための練習が出来るという点で 3年の平常演習では是非やりたい非常に価値のある やり方のように思われる。

受験問題集のレベル

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3年の数学は文系を中心に問題集による演習が行われる。 3年の最初,夏休み,後半,センター直前,センター後などに どの程度の問題をどれくらいの量こなしていくかは, 難しい問題である。
やらなければならないと思う教師や,不安だからやっておくという教師が 多い中で,内容を少なく,あるいは易しくという意見は通りにくい。 問題集にも,この程度はやってほしいと印がついているが, 出版社は本当にそう思っているのだろうか。
通年使用する問題集については,昨年かなり良い結果を出した経験から考えると, 最後まで諦めないで続けられる程度に易しい問題をやっておくのがいいように感じている。 本校の例でいえば,純粋理系でも数研シニアの左側で十分である。 ただ,大判の問題集でセンター対策を標榜しているものの中には, 本当に簡単で意味のないものもあるので,ただ簡単にするのはまずいかもしれない。 要は,生徒が食らいついてきているかどうかを見ながら,難易を調節すればよいし, その程度の易しい問題で足りるということである。

文系の育て方(数学の視点から)

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文系のやり方は顕著な効果が見られなかったと思っていたのですが, 思っていたより文系の結果が良く, もしかしたらうまい方法だったのかもしれません。
全体でセンター5教科7科目を受けた生徒が50人ほど 増えました。文系で20人増え,国公立大学合格者も 文系で19名増えました。凄い効率!です。
一応書いておきますね。
入試に出る程度の問題を要求する問題集を与える。 そこには例題と解答がある。 その問題とかなり似ている問題を前の時間にプリントにして 与え,そのプリントの問題について演習する。
4〜5回に1回試験をする。試験の内容は 数字を変えた程度の殆ど同じ問題が殆どである。 もちろん結果は評価に入れる。
どうせ覚えるなら,役に立つ1固まりの問題と解答を 飲み込ませようと言うこと。さらに,それが1回でも 本当に身に付いたかどうかチェックするようにすることである。
センター対策は早くて10月,遅くても11月から実践形式で 解説を加えて3回を1セットで行う。

理系と違い,文系は数学を投げてしまうことができる。 投げてしまうことで,勉強の効率化をねらうのだが, 実際にはどんどん志望を下げていくことになりやすい。 最後まで諦めずに頑張れるか, 教師は生徒とどうつきあったらいいのか, この文系の対応が一番問題である。


ワルの口癖

CONTENTS

例えば,茶髪の子供が, 「親や先生は,この格好をみて悪い子だと思う。 格好だけを見て中を見ようとしない。」 という。 まるで言われた方が,悪いことをしているようだ。 これが,言われ無き差別なら確かにその通りだが, 格好を直せばそう言われないのだから,差別とは 違う。
そもそも人と違った格好や行動をするのには, 信念と努力が必要で,行動には主張がある。 その主張が受け入れられないとき, おまえたちが悪いと居直るのはとんでもない思い違いである。

学校で数学を学ぶわけ

CONTENTS

「どうして数学を勉強しなきゃいけないの?」 と「数学の価値」の狭間が気になりました。
歴史などの社会系の学問と違って,自分で本を読むという 勉強は,基礎がないと難しいでしょうし,英語(英会話) と違って,社会人向けの学校もありません。 しなくて良いならそれまでですが,すべきなら, 学校でやるしかないのではないでしょうか。
総合学習の話題が少しずつ増えてきています。 数学では,おもしろい話題を取り上げて 興味付けをするような方向が見えてきていますが, これは一時的な暇つぶしで,アメリカ流に言えば, 今回の原潜事故で話題になったように納税者に納税することの 意義を納得してもらうためのサービスにすぎず, 社会全体の数学の力を上げる(保持する)役には たちません。
授業時間は減るのだし, 本流は何かを忘れないようにしなければ,と思います。

国公立大学合格者数の予想

CONTENTS

私の勤務校では, H13年度大学入試では国公立大学の合格者数について, 大方の予想は100人ちょっとでしたが, 私だけが120人はいくとして,うまくいけば130人だと 言っていました。 ちなみに私も3年の担任でした。 ほら吹きだと思われていたようですが, 実際134名の合格者となりました。
今までのセンターの結果を見ていて, 気づいたことがあります。
700点換算の平均点が, 河合塾の出す800点換算の全国平均点を上回った 生徒の数±10が国公立大学の合格者数になっていました。 今年もそうでした。
誤差の部分は,その学年の勢いや教師の姿勢によるようです。 予備校などのA,B,C,D判定などで人数を予想することは よくありますが,実際にはDでも入ったり,年によっては Cでも殆ど入らなかったりして誤差が大きすぎます。
他の学校ではどうですか?

世間とは

CONTENTS

茶髪はなぜいけないの?
世間がそう言っているから。
なぜ日の丸を天皇在位10周年にあげるの?
世間がそう言っているから。
みんなが言っているからというのは、 この国では、 子供が親や教師に言うだけでなく、 権力者も好む言い訳らしい。 しかもはっきりさせようとすると、 抵抗するのはどうしてだろう。
もう一つ嫌なのは、 上から指示が降りてくる間に、 お願いがだんだんと強制となり、 ついには命令になってしまう。 しかも、誰が命令したのかはっきりせず 従って責任を取ることもないだろうな。 何でこんなことに従わなきゃいけないんだ? と中間管理者の校長は思うでしょうね。 それとも...

学習指導要領は本当に従うべきものなのか

CONTENTS

政治的なことは言わない。 委員の話や、論評で次のことを聞いたからである。
第1回の会合の前に、方針が決まっているんですよ。 どこでどのように決まったのかわからないんです。
何で毎回、前回の方針を変更して新しいものを出すのか と思ったんです。前回の結果を評価しないんですよ。 そして新しい方針を打ち出していく。 10年間の教育を方向付ける方針なのに、 これでいいんでしょうか。
これでは現場のやる気がそがれていっても当たり前である。 権力者は方針と結果を評価し講評せよ。 当たり前じゃん。

遅刻したとき叱ること

CONTENTS

どうした?
遅刻しました!
そうか。遅れるなよ!
ちゃんといいにくるのはまともだが、 これじゃあひどい。 何故遅刻はいけないのだろうか?

自分のことを棚に上げる

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何かを言う場合に、 「自分のことを棚に上げてる」と言われると、 勢いをそがれてしまう。 教師は大抵真面目だから, 自問自答して自滅してしまうことも多い。

教師は,自分の行動をきちんとすることが 仕事なのですか?

教師が自分のことを棚に上げるのは、当たり前のことである。 ただ,影響力を保持するために身を慎むべきなのは 当然であるが。
この辺のことをわかっていない人たちが教育委員会の 中枢にいるようで,いやになっちゃうんです。^^;

あきらめること、あきらめないこと

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「やる気がある」ことについて

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茶髪はいけないか

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生徒との直接対決を避ける

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「うるさい」と怒鳴ると、その生徒対教師の構図ができる。 1人ならよいが、2割もの生徒がうるさいとこのようなことでは 対応できない。 全体に「うるさくないか?」「うるさいと迷惑だよな」 などともっていく。そうだよという反応がなければ、 そこでは追求はやめる。ただ、 授業がやりにくいからもう少し静かにせよ、とはいえるだろう。
その場で結果を出さなければならないと思ってやりすぎないこと。 最終的に影響力を行使できれば教師の勝ち!
教師も生徒も引っ込みがつくようにその場その場を納めていくのが 大人の対応というものだ。

たまに高圧的なやり方でいつも解決していると豪語する教師がいる。 その周りには,尻ぬぐいをさせられている教師たちがいる。
周りが見えなければ一人前の教師とは言えない。


不言実行

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平等原則は無条件に真か

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ひいきは生徒から嫌われる。 平等でないというと、悪い印象を与える。 アメリカでの平等は機会の平等であり、 日本の平等は結果の平等であると、よく言われる。
先日、新聞に院内感染予防措置の補助金について載っていた。 専門家を置いて数年前から世界標準の石鹸と手洗いによる 方法で予防措置をしていた病院が補助金をもらえなかった そうである。補助金交付の条件として、 アルコール薬剤による消毒を要求していたからである。 この方法は、施設がない多くの病院に予防措置を行う方法として 考えられたものだそうである。
バブルがはじけた後の銀行の貸し渋りについても、 次のような解説があった。 土地にのみ価値を見いだして貸していた銀行には、 正当に将来の業績を評価する方法が無い。 だから、まともに貸すことができるわけがない。
現場に考える力がない。 いや、考えることを管理者がつぶしている。 このような中から、次の管理者がでている現状では、 救いようがない。管理者が責任をとるというのは、 管理者が方向を出し、それを実践した後 外部の厳密な評価を行い、失敗した場合は 管理者が権力を失うということである。 マニュアルが悪いという風潮があるが、 現場に自由裁量を与えない管理者の使い方悪い。 本来、どうでもいいようなこと、 ルーチンワークには頭を使わなくてすむようにあるのが マニュアルであって、 これがあるおかげで、 大事なことに時間を割けるはずなのである。 もっとも、最近の、効率のみを考える風潮では、 マニュアルの対応ですむ程度の時間、人員配置しか 行わないから、マニュアルで対応できないことに 対応できるはずがない。
話が大きくなってしまったが、 学校の現場では、 平等を強く意識すると、 個人を見ないようになる。 枠をはめてルーチン化しようとするようになる。 個人を見るということは大変なので、 自分なりのマニュアルは必要であるが、 そこからはずれる勇気を持つことも大事なことである。

雑談をしよう

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教師の「依って立つところ」

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文化としての数学

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2次方程式なんて、社会にでてから使ったことがない。 だから数学はいらないとある作家は言った。 その夫は数学の重要性を認識していたそうだが。
さて、森で何千年も昔から狩猟生活をしている人たちがいる。 その人達に数学を教えることは意味のあることだろうか。 全否定するわけではないが、数学も含めて、 我々現代文明を享受している国々で通常行われている 教育内容のすべてがその人達にとって、意味のないものであろう。
かわいそうというのは当たらない。 よけいなお世話だ。 そういう意味では、学校で行っている教科内容は、 すべて不要である。 しかし、これらが通常の生活をするベースになっている。 何に役立つのではない。何かあるときに、 共通の概念を他の人と分かち合うための土台となるのだ。 これが文化というものである。
すぐ役に立つという認識から外れたその時代が要請する知恵の元である。 役に立つという分かりやすい範疇から外れたところにあるために、 ある程度強制的に学ばせる必要がある。
例えば、明治時代にあれほど急速に西洋文明を吸収できたのは、 和算のレベルの高さもあるが、生活に必要のない庶民ですら、 寺子屋を通じて、学問する素地があったからだという説がある。

罪を憎んで人を憎まず

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学校現場で、この言葉があると、 「悪いことをしたあの子を仲間はずれにするは いじめである。同じ仲間なのだから仲良くしなければならない。」 とこうなる。
本当にそれでいいのだろうか。 「悪いことをやっても関係ない」とならないだろうか。
悪いことをやっているあの子は悪いから、仲間はずれにする。 でも、悪いことをやめたあの子は仲間だ、というのが 正しいのではないだろうか。 これで、悪いことをした者が正しく、浮き上がることになる。
悪いと誰が判断するのだという声が聞こえてきそうだ。 絶対正しい判断など無いから、まずいことも起こるかも知れない。 しかし、何に対して問題としているかが明確になれば、 やめるのも、突っぱねて孤高を守るのも個人の自由である。 この選択も重要である。単に仲良くせよと言い放つより。

悪びれない子供達

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注意されるような生徒の多くは、 習っていない教師が注意しても、 「自分のことじゃねーや」 というように、立ち止まることもせず すーと行ってしまう。 止めることに成功しても 「おめえはだれだい」 という感じで、 注意を聞かせるようにはならない。
私が小さい頃は、怒られるときは、 「まずかったなあ」という気持ちが 強くでていた。小さな子供は、 震えていたり、泣いたりしたものである。
実際には、大したことが無くても 経験不足から取り返しのつかないことを やってしまったように感じていたのだろう。 その様なときは、 「大丈夫だよ。」「大したことはないからね。」 と優しい言葉は大きな意味を持った。 しかし、現在の子供達は、前提である 「まずかった」という感情が抜けている者がいる。 注意をしようと思う生徒達の中にはかなり多いように思う。 このような子たちに、十年一日の対応をしてはならない。 結局、しないようにさせたいだけなら、 明確な指示と違反には罰則をつけるとか、物理的にできなくなるような 方策を採ればよい。実社会での方法である。 説得してやらないようにしたいなら、 生徒個人の心に触れるような対応をしなければならない。 この後者の行き方は、優しく対応するということとは違うのである。 まず、個人を見ること。ここから始まる。 また、全体には、社会総体の平均値、平均的な見方感じ方を 知らせる。ただ、何%は常に規範からはずれるものだという事実も 合わせて知らせる。
テレビや雑誌と違うと言われると思うが、 当たり前である。ニュースになるのは、突出した部分だけなのだ。 実は、この感覚も、良く忘れられるのである。 すなわち、ニュースにでてくるようなことが、面白いや当たり前と、 いつも感じるなら、かなりやばい状態だと。
個人に、このような感じが抜けていると思われる場合は、 一般論としてこの話を始める。自分自身が対象の場合は、反発が起き、 理性が働かない。また、相手の中に一般論としてこれがないと、 注意を受けいれる準備が無いから、無用な軋轢のみが生じる。
私は何か問題があるたびに、その高ぶった感情が治まらないうちに、 授業で雑談として話をする。HRでは、「怒られたらその人がいるうちは、 悪びれろ!」、「言いたいことは、後で、冷静になったら言え。」、 「悪いことをしたら、全体から浮き上がるのが当然。」 どんな人間も、良いところと悪いところがある。 ただその割合が個人で違うだけだ。 自分だけいつも外れてよいと考えてはいけない。 自分だけいつも外れないでいけると考えてもいけない。 などと話している。
中途半端に、心の内面を表出させる、ドラマ、ニュースなどの影響と、 ごく少数の情報がすべてだと感じる全体主義により、 素直な心の反応がゆがんでいることが根底にある。 ここに手を入れなければ何も変わらない。

多数決は絶対か

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これは数学の話ではありません。
表題のように書くと、そうではないが...と考える場合が 多いであろう。これが政治家の選挙となったらどうだろうか。 聞こえてくるのは有権者の票の重さだけである。 それはそれで大事なことではある。 しかし、地方には、都会に対して嫌悪感を持っている部分がある。 ゴミ処理や原発など、住民が近くにあってほしくないものは、 多数の力により少数の住居近くに建つ傾向がある。 いじめの構造と同じだなあ。 水源などを考えても、人だけで決めていいのだろうか。 面積割りの観点も必要じゃないか?
こんなことを考えているのは自分一人だと思っていたら、 いるんですよ。びっくりしました。 世に広まっていない意見も結構あるんだろうなあと思った次第です。

勉強ができることと学力が伸びること

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帰納法は演繹法か?

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大昔の帰納法は、現在の帰納法の第0段、予想する部分だけである。 倫理などで学ぶ帰納法も、これと同じであろう。 その予想を証明する部分は演繹法だと言う人が沢山いる。
私は、生徒には、次のように言っている。
数学的帰納法とは、人間が神様になることだ。 枠組みは作るが、証明そのものは、枠組みが勝手に実行してくれる。
このイメージの方が、ドミノ倒しに良く合うと思う。 ついでにいうと、ドミノ倒しと帰納法の対応関係は、 ドミノに式を書いて、ドミノが倒れることと、 式が正しいと示されることを実際に対応づけた方が分かりやすいようである。
さて、人類が獲得した論理形式は演繹を除いて、3つしかないと言われている (私は責任を取らないことに決めました。 ちなみに責任を取らないと言うことは、栄誉も返上するということです。)。
背理法。帰納法。鳩ノ巣原理(部屋割り論法)である。
「鳩ノ巣原理を用いた議論も演繹と呼ぶのかなあ」と最近考えることがあり、 やっぱり、帰納法を演繹というのは言い過ぎだよなあと思った次第である。

進学校が進学に有利なのはなぜ?

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「数学の解答って、白黒がはっきりして好き(嫌い)」なのかねえ?

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今年の夏休みに理数科の体験学習を実施した。 そのときのアンケートの感想の項目に、 次のような内容が一つあって悲しい思いをした。 「答が一つしかない、頭を使わない学科だ」。 世間にも、「数学のように答が割り切れる訳じゃない!」 とよく使われる。
大学の試験結果を公表するかという議論があって、 「理系学部の先生の中にも、数学は発表してもいいね。」 と言われて閉口したとの話を読んだ。 「良い数学の解答は、作文と考えてもらいたい。 構成力や表現力が問題なのだ。」とそこには書いてあった。
面白いと思う大学入試問題はそんなにはないが、 そういう問題の答は千差万別である。 すっきりしたもの、力だけのもの、美しいもの... 答があると分かっているものでさえこうである。 実際には、答の分からない、問いかけすら明瞭でない事柄を 自分で切り出してゆくのが数学だから、 表題のように割り切られると、気持ちが割り切れずに 切なくなるのである。

「数学のできる先生の授業は分からない」か?

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良く聞く言葉だが、実際にそう思っている生徒から、その場で聞いた経験は私は無い。 どちらかというと、井戸端会議で、 「そうよね。あの先生って自分じゃ分かるから、分からない生徒がいるってことが 分からないのよ。」と納得してしまっているのではないだろうか。 分からない生徒の存在を感じ、どうにかしなければならないと感じるかどうか、 すなわち個人の感受性だと思う。
感じていても、どうしたらいいか分からず、悩んでいるなら、 生徒に言ってみるのも手である。ただ、ストレートに言ってはいけない。 困っていると言っても、それは教師の仕事だと思われるだけである。
例えば、「わかっていなさそうだから、次の時間、もう一回やりましょう。」 「これなら分かるかなということを考えてきました。」 これは新人教師向けの例ですよ。

数学の論理と日常の論理

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数学を学ぶ目的の一つに論理の訓練をあげることが多いが、 違うんじゃないかな。実際、数学の先生は会議では感情的になるなんて 話もあるくらいだ。物の本によれば、アメリカではあまりぱっとしない おばさんでも、口論を始めると、日本人はまず勝てないという話もある。 危ない表現は大目に見て欲しい^^;。
数学の論理は、反例を許さないもので、 精密な議論の連鎖を何段にも渡って行う。 それに対して、 日常の論理は、曖昧な(自然)言語を操って、 しかも、考えのベースを明確にせずに論議を行うから、 反例を許す結論が、そして解釈が多様に取れる議論の連鎖となる。 従ってほんの数段の連鎖で結論を出さなければいけない。
日常の論理は、ディベートなどによって訓練されるものであり、 話し言葉に相当する。 それに対して、数学の論理は、真理を厳密に追求する論理であり、 書き言葉に相当する。

「教科書を教えるな。教科書で教えよ。」の裏

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小学校で、「法則化運動」(だったと思うのだが)というのがある。 教科書をきちんと教えられない教師が多く、 それが出来れば生徒に伝わるというものである。 (本当は、こんな簡単には伝えられないので、興味のある方は直接読んでください。) 「教科書を教えるな。」という言葉で、未熟な教師は、力もないのに違うことを やろうとする。中堅教師は、教科書を使うことに後ろめたさを感じる。 実際に、その辺の教師が、あるいは超一流の教師にしても、 教科書丸ごと違うこと、しかもその方が良いことなんて、出来るわけがない。 だって、多くの教師の意見を、多くの時間を費やしてまとめたものが 教科書なのだから。 もちろん一部に適当でない部分や、間違い、合わない部分は有るだろう。 しかし、殆どの部分は、教科書をきちんと教えることでよいのである。 これは、予習をする生徒の側にとっても良いことである。
この言葉は、教科書の字面を教えるだけではだめだよ、 と諭しているのである。

プロとアマの違い

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誰でも教えることは出来る。 さらに、一般的には、教師が関わる場面は非常に広い。 したがって、企業のように、 これが専門だというのは難しい。 教科に限っても、研究者ではないのだから。 教師のプロ性は、教育の実践に有る。 塾との違いは、教育の内容が制限されない点である。
この教師のプロ性と似ているのは、親業である。 生徒に対する優位性は、経験の量のみである。 それを適用するときに大事なことは、 「全体主義」に陥らないことである。

言葉が足りなかったので追加。
「最近の子供達は...」と話しているとき、 マスコミなどに踊らされて、本当に多くの生徒がそうだと思っていませんか? そのときあなたは、アマチュアになっていますよ。 アマは発言に責任を持ちません。 プロは発言が影響を持つので、責任が発生します。 マスコミはプロではないですね。^^;


生徒と一緒に学ぶということ

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長年教師をしていると、 xの実数乗の積分と1/xの積分の関係や、 極限を定積分で表すとき、 区間の内点の値を使って簡単に表すなど、 生徒の質問、解答、誤答などから 色々なことが分かる。 もちろん、授業上のテクニックも得ることは大きい。
この言葉は、生徒と同じレベルの内容を学ぶということではなく、 教える内容は、相手によって変化したり、 こちらの理解も完全ではないということを 言い表している。 教師は常に柔軟に考えて行動せよという風に、私には聞こえる。

全体主義

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全員が出来なければいけないと思いこむ。 少数の事実を全体の事実と誤認する。 生徒あるいは子供がよく使う、 「みんな持ってるよ。」「みんながやってるよ。」
「誰がそうなのか、あげてみよ。」 という態度で、論破できる。 できの悪いマスコミ(殆どがそうなのがうらめしい)が よく使う手であるが、本人も分かっていないのが、 社会現象となっていて、まずい。

教えるということは分からせるということ?

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よく、「分からせる」という言葉を使います。 生徒指導で、生徒がいうことを聞かないといっている人でも、 そうですね。我々が出来るのは、生徒を取り巻く環境を 与えることです。その中で生徒は自分で学んでいきます。 だからこそ、教師の努力、勉強、力量が必要なのです。 教師が与えた環境をはずしても自力で学べる生徒になることが 我々の目標ですよ。 ここは謙虚に行きましょう。

話を聞かないと嘆く前に

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講演などを聴いていて、退屈になることがあります。 講演が面白いと評判の方は、事前に息子を相手に何回か予行を されたそうです。
授業やHRも同じですね。 教師のプロ性は、如何に影響を与えるかですから、 声の大きさ、その変化、声の抑揚、 身振り、生徒を見ること、見回し方、 短くはっきりした指示やメッセージ、 言葉が頭に入るための間、 作業する時間の指示や取り方等、 教科内容に関係ない技術が沢山あります。 色々実践してみてください。 その際、殆ど毎回成功しなければならないなどと、 生徒と同じことを言ってはだめですよ。

教室へはいつ行くべきか

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授業のチャイムがなっても生徒が教室に入らないという話が 有りますが、教師だってそうじゃないですか? 授業時間には授業をするというのなら、 事前に教室へ行き、いつでも始められるように したらどうでしょう。 すべてはそこから始まりますよ。 おまけとして、チャイムのなるまでの わずかな時間でも、生徒の話が聞こえてきたり、 こちらから話しかけてみることも出来ます。

教師は子供好きでなければならないか

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好きであることの効用は、 世話をすることが苦にならないことであろう。 しかしちょっと待って欲しい。 生徒は世話をされる対象なのだろうか? 私には非常に傲慢に聞こえる。 特に、相手が言うことを聞かないとき、 これだけ親身になっているのに...と かわいさ余って憎さ百倍となりやすい。 プロなのだから、冷静に対応したいものだ。

教育技術としての「教えない」こと

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最近は、社会が「効率」のみを求め、 教育現場でも「いかに教えるか」だけが話題となっている。 最近のニュースで、教師を評価する物差しとして、 教えた生徒の点数を使うなんて話が出ていた。
文化は、社会に余裕がある時に花開く。 数学の歴史の中で唯一無二の論理を開花させたギリシャ文明も 「市民」は搾取階級だった。実学には効率が似つかわしい。 しかし、文化はそうではない。
成り立ての教師は、背負っている背景が少ないので、 「分からせる」「如何に教えるか」は重要なポイントである。 しかし、15年も立ったら考えて欲しい。本当にあんたの力で 生徒は伸びているのかと。生徒が伸びることが重要なので、 あんたが教えることが重要ではないのだよ。教育の目標は、 社会のレベルを下げないこと。自分を越す後継者を作ることにあるのだから。 自分の頭で考えることが何より大事で、そのためには、 教えすぎず、興味は持つという状態がベストなんだ。 そういうと、出来る生徒だけという話が出てくるが、そうではない。 「全体主義」にならなければ、どこでだってやれるさ。

数学の価値

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その辺のうわさ話をするだけなら、 定性的な話でよいのですが、 本当に何かを知りたいとなったら、 定量的なことを考えなければ ならなくなることが多いのですが、 その場合、数学が唯一解答を与えてくれると思うのです。 つまり、知識を単に並べるだけ以上のことをするためには、 数学が必要になると思うのですが、 他に方法は有るのでしょうか。

面白い話とは

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授業の導入で行う、生徒を引きつけるテクニックの話である。
本論に入るととたんに生徒が聞かなくなるということを いう人がいるが、当たり前である。 本論で勝負せよ。

どうして数学を勉強しなきゃいけないの?

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教師は基本的にまじめな人が多いから、 このような質問にすぐ答えねばならないと思い、 苦しむことが多い。 しかし、生徒はどういう気持ちでこの言葉を発しているのであろうか。
経験的に、授業妨害、先生を困らせるため、 試験前のいらいらの現れなどの理由が多いが、 苦手意識を克服したいなど、まじめな気持ちで聞いてくることもある。 いずれにしても、教師は言葉のみにすぐに反応してしまいがちであるが (これは、教師にとって重要な行動パターンである)、 その場合には、生徒の気持ちと乖離して行き、 こちらの言葉がむなしく空を切ることになる。 このように、生徒の気持ちが重要な場合は、 質問で切り返してみよう。 「どうしてそんなことを考えたの?」、 「君はどう思っているの?」。 はぐらかしているのではないかという反応には、 「難しい問題で、答はたぶん沢山ある。だからもう少し詳しく話してくれないか?」 等と対応することで、本当に話がしたいのなら対応しやすくなるだろう。 この質問に答えるのは、まだまだ先の話である。

同様に確からしい

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10月15、16日に新潟市で行われた 北陸四県数学教育研究大会に行って来ました。 そこで、表題の「同様に確からしい」ということについて 質問が出ていました。
この概念を教える適切な方法を求めていたようでした。 教科書通りでは、感覚が分からない、 伝わらないということです。

教科書に良くある硬貨二枚を投げる試行を 使って、私は、生徒に次のような質問をしています。
「二枚とも表が出るのと、二枚の表裏が違うのと、 どっちが得かな?」
生徒がこの答を間違うことはありませんから、 単純に場合の数を比較して良いわけでないことは すぐに気付きます。
「さらに、じゃあ掛け率をどう変えたら公平になるかなあ。」 と追い打ちをかけます。 結局、「同様に確からしい」とは、確率を数えることで計算するための 工夫ですからね。根元事象を考えることで同様に確からしくする事が 出来やすくなりますが、それが絶対ではありません。