山田の春祭り
恒持神社、春の例大祭を山田の春祭りと呼んでいます。「新篇武蔵風土記稿」(1810年江戸時代、文化7年記録)によれば中山田の丹生社と
西新木にあった丹生明神社の祭礼と伝えられます。定かでは有りませんが歴史は更に遡ると想われます。?。中山田の丹生社と西新木の丹生明神社
の所に屋台蔵が有ります。
 屋台は江戸末期1850年前後(安政年代)と言われ新木屋台(本組)は新木和泉、山田屋台(山組)は番匠荒船飛騨(何代目か不明)によって
建造されたと云われます。間口は山組屋台が1.84m、本組が1.76mと若干の差がありますが奥行き3.03m、高さ4.8mとほぼ同じ
です。日本三大祭りの一つ秩父夜祭りの屋台より一回り小いさい造りになっていますが、昔の道幅の狭さの影響も有ると想います。?芸能形式の
屋台は楽屋とを襖で仕切り前が踊り舞台になっていますが、秩父夜祭りの屋台のように歌舞伎上演の為の張り出し舞台を組む仕掛けは有りません。
秩父夜祭りの屋台は手を加えられ改造されていますが、山田の屋台は秩父地方の祭り屋台の古い形態を留めています。
 大棚笠鉾(上組)は明治に入って建造されました。間口は屋台より約30cm狭い1.53m、奥行きも2.18mと85cm短くなっていますが
高さは6.36mと高くなっていますが、笠鉾は芸能形式の屋台と違い、神事に通ずる乗り物、神様が降りて来易いように高くしているようです。
山車の桧の心柱を中心の頂きに天道、その下に雲形万灯、三階の傘を設け、その笠ごとに竹ヒゴの造花を付けた秩父地方独特の形です。山車の形式
としては一般的に「万灯山車」に属するようですが、秩父では笠鉾と呼んでいます。大棚の笠鉾は、万灯が省略されていますが、本来の高さは7m
以上になると想われます。
 屋台が完成するまでは、神輿の渡御と祭典のみで中山田と西新木の両丹生社が正月2日に出会い祭礼が行われていましたが、恒持神社祭礼は関係
していなかったようです。屋台の山車完成後明治41年までは、屋台の曳き祭りとして正月7日に行われていましたが、恒持神社へ合祀されてから
大正4年まで2月20日で行われました。大正5年から1999年、平成11年までは3月15日で行われていましたが、2000年、平成12年
からは3月第2日曜日に行われて居ます。
山田の春祭は3月ですが役員の人達は12月には準備に取りかかります。祭の1週間前からは、
慣らし太鼓が始まります。慣らし太鼓は、眠っていた太鼓の革を慣らす意味と腕慣らしと太鼓
練習の意味を兼ねています。祭の前日、3カ所の屋台蔵前での山車の組立、祭の準備が行われ
ます。本組(新木屋台)は祭前日、試し曳きが、行われます。

 15日は、私たち山組は、朝6時前後に1番太鼓(触れ太鼓・目覚まし太鼓)を叩きます。
今では、公会堂が有り寒さしのぎをしながら屋台番(警備)が出来ますが古くは外での屋台番、
寒さしのぎも有りますが、夜明かしで太鼓を叩いたそうです。
 朝、太鼓を打ち慣らす頃、号砲(花火)が上がります。町内の人も集まり、幕の飾り付けが
行われ、出発の準備が進められます。

 午前8時、号砲と共に恒持神社に向けて出発。現実には出発時間は、後の方に多少ズレます。