夢破れた者

 忘れられない記憶が、ある。



 忘れられないから、その記憶は今も俺の心にまとわりつく。



 どっちかってえと、あまり覚えていたくない部類の記憶だ。



 忘れられれば楽にもなるだろう。どころか、もう少しマシな考え方を持って生きていけんだろう。












 けれど、忘れたいって願っても、未だに頭の中にはしつこくこびりついて残っている、嫌な記憶がある。



 その嫌な記憶に捕らわれて、今日も俺はひっそりと生きている。



 人にかかわらないように。少なくとも、誰かから接触されることがないように。























「調子良さそうじゃん、マサ」
 練習の合間に一息ついて、体育館の冷たい床に足を伸ばして座り込んでいるところで、隆輔に声をかけられた。
「いつもの通りやってるだけだって。いーかげん飽きてきた」
「おいおい、飽きるな飽きるな」
 軽い会話をして、互いに笑う。内容は大して面白いもんでもないが、リラックスしてるせいか、口を利くだけでも妙に楽しさが湧き上がってくる。
「じょーだんだって。本番でもアレ上手いこと持ってこなきゃいけねんだから、念は入れるさ」
「お前が言うと冗談に聞こえねェよ、マサ」
「なんだよそれよー。真面目だぜ俺」
「口で言われたってな。お前、自分がどう思われてるかわかってるか?」
「期待してくれてんだろ、みんな」
「いや確かにそうだけど……ああもう回りくどいのやめた。どこまで冗談でどこから本気なのか、お前、わかんねェんだよ。みんな言ってるぜ」
 なるほどねェ、と答える代わりにくっくっと笑い返してみる。
「笑いごとかよ」
「いーじゃん、面白ェんだから。てか、そういうお前の顔も笑ってんぞ」
「や、お前らしーなと思って」
 そして、しばらく2人で笑い続けてみる。どっちも盛大じゃなくて声を殺しつつ笑うから、多分傍から見たら結構変な感じだ。
 俺・明原聖人、そして目の前の柳原隆輔(やなぎはら りゅうすけ)は、中学3年の夏、体操の引退試合を前に、自分の体と技を順調に仕上げ、余裕を持って練習時間を過ごしていた。








 まだ十何年も経っちゃいない短い人生だが、その中でも、あの頃は体も心も一番充実していただろうと思う。
 ウチの両親は「好きなようにすればいい」という言葉だけをよこして、放任主義の姿勢でいた。だから俺が体操をやりたいと言い出しても、反対しなかった。
 もともとウチは体操の名門でも何でもなく、親父も母さんも普通の社会人で。だから俺の体操の始まりは、テレビでその動きを見てあこがれたことがきっかけだった。それが小学生の2年の頃だ。
 そこからクラブに入って体操を続けて、中学3年の夏を迎えた。中学最後の試合に入るまでは、もちろんその後も体操を続ける気でいた。



 それが今はどうだ。自分から望んで、光の当たらないところに逃げ込もうとしている自分がいた。











 応援が聞こえる。
 ドクン、ドクンと自分の胸から鼓動が聞こえてくる。
 声のほうはすぐに静まり、鼓動だけが聞こえてくる状態になる。聞きながらも、すうっと呼吸を整えて、真正面を見据える。
 体操の関東選手権、中学生の部、跳馬。高く跳んで、置かれた跳馬を利用しつつ、空中で美しい動きを決めてみせればいい。とはいっても実際は、練習どおりの動きをやればいいだけ。そうすれば当然いい評価がもらえるはずで。
 すでに、床運動と鉄棒のほうは綺麗に決めてみせた。この跳馬と合わせると、3つの種目での体の動かし方ってのはてんでバラバラだが、それでこそやりがいもあるってことで、3つにエントリーした。
 そして最後、この跳馬の助走路の上に、俺は今立っている。他の2つと違い、跳馬の動きはシンプルなほうで。床運動も鉄棒も演技時間は長かったが、跳馬は対照的に、一瞬ですべてが決まるようなものだった。
 これからは、その一瞬に全身全霊を込めなきゃならない。何度も呼吸を整えて、集中して、自分に気合を入れる。
 そして、走り出す。陸上の走りのようにがむしゃらすぎないように、どんどん間近に迫る跳馬に、全神経を集中させて。
 走りの勢いを乗せたまま、ロイター板を踏もうと、浮かせるように足を上げ、その一瞬後に強く踏み出す。






 真正面に、強烈な衝撃を喰らった。
















 自分に何が起きたのか、わからなかった。
 わかっているのは、胸全体が砕けそうに痛いこと、自分の体が地面に横たわっていること。それだけで、何も状況がわからない。
 悶えているうちに、大人たちに抱えられ、何かの布の上に乗せられて――運ばれながら少しして、ようやく担架に乗せられたんだと気づいた。
 けれどそれ以上考えられなくて、その時の俺はただ、激痛にのた打ち回っていた。
 いっそ意識が途切れていれば、そんな痛みを感じることもなかっただろうに。死にたくなるくらい痛かったのに、俺は担架で運ばれる間も、救急車に乗せられた時も、意識を失うことはなかった。意識がなくならなかったから、俺はずっと激痛地獄にまみれていた。












 意識があって、ずっと激痛が続いていて。だから病院のベッドの上に寝かされるまでの間に何があったかってのは、全然覚えてなくて。
 楽な体勢にされて、鎮痛剤を打たれてしばらくしてから、ようやく落ち着いてきたってところだろうか。そうなって、やっと俺は口を利くことができるようになった。
「……マサ? 大丈夫か?」
 小さな、けれど切迫した声が横から聞こえてきた。振り向くまでもなく、その声が隆輔のものだと知って、俺は息を吐いた。
「……なんとか、な。生きてる、よ」
 途切れ途切れに言葉を響かせた。それだけでも胸が痛むような気がして怖くもあったが、答えないままじゃいられない。
「……どう、なったんだ、俺?」
「……こっちが聞きてェよ。お前、跳馬に激突したんだ。足踏み外して……どうしちまったんだよ?」
 隆輔の説明に、そういうことかとぼんやり思う。だから胸が強烈に痛いんだと納得し、そしてこれは自分のミスがもたらした結果なんだと悟る。
「……どう、したんだろな……油断した、つもりなんか、なかったのに」
 訊いてきた隆輔は、口調からして俺のこの姿が信じられなさそうだったが、俺は自分がよくわからなくなっていた。
 油断してこうなったのか――あの大舞台でどうして油断なんかできる。
 じゃあ緊張しすぎていたのか――その前の床と鉄棒が上手くいっていたのに、なんでそうなる。
 練習不足だったからこうなったのか――練習は上手くいっていた。むしろ技は洗練されていた。
 いったい何がどう間違って、こんなことになっちまったのか。考えてみたものの、答えは全然出てこなかった。
 代わりに、別のことが気になった。
「……お前、どうしたんだ? 結果は?」

「棄権した」

 即答だった。しかも、内容に対して俺は耳を疑った。
「……なん、だって? なんで」



「できるかよっ、お前があんなになったすぐ後でよ!!」



 叫び声のような言葉が響いた。迫力と悲痛さで、俺は黙らされる。隆輔も何も言わなくなり、病室は気持ち悪いくらいに静かになった。
 黙らされちまうほど、隆輔の言葉が俺に刺さっていた。俺が激痛地獄にみじめったらしく苦しんでいたことが、隆輔の心をも萎えさせちまったと、そう感じてしまった。
「……悪ィ」
 しばらくして、沈黙に耐えられなくなって、俺は洩らすようにぽつりと言葉を告いだ。
「……なんで謝んだよ」
 低いが、わずかに嗚咽が混じった隆輔の声。
「……俺、失敗したから」
「なんで謝んだよ……今お前に謝られたら、俺、どうしようもねェじゃんかよっ……」
「なんで……」



「一番痛ェの、お前だろ!?」



 また叫び声になり、それから隆輔は慌てて口を噤んだ。また雰囲気が気まずくなり、部屋の中は静かな時間を刻んだ。
「……よく、わかんねーや……今、別に痛くもねェし……やる気もねェや」
 すべてを投げ出してしまったような感覚、と言ってもいいような。そんなものに、今の俺は包まれていた。
 返ってくる声は無い。俺も、何も続けない。また部屋の中は静かになる。
 次に響いたのは俺と隆輔どちらかの声じゃあなくて、椅子の足が床を擦る音、そしてつかつかという足音だった。首だけ動かして顔を向けると、病室の扉を乱暴に開ける隆輔の背中が映った。



 その背中が、俺が見た隆輔の中で、最後の姿だった。























 怪我のほうはというと、肋骨2本にヒビが入っていたらしく、リハビリも合わせて2ヵ月半の入院生活を強いられることになった。
 あの大会を最後に一度体操から身を引いて、高校受験に向けての勉強に入らなきゃって時に、俺は大きく出遅れた。
 しかも、その2ヵ月半を終えてようやく退院したはいいものの、跳馬激突がトラウマになっちまったようで、復帰する気がまったく起こらない。どころか、体操の世界に身を置くことに恐怖するようになってしまっていて、結局、体操クラブに戻る気には到底なれず、退院直後に退会申請をしてしまった。
 その際も、隆輔とは会わなかった。入院の日以降見舞いには来なかったし、退院してからも、クラブのほうに隆輔の行方を訊くことはしなかった。



 小2から始めて、中3の夏まで続けて、長い時間をかけて積み上げてきた体操の技術と愛着。
 それが、たった一瞬の出来事とそれからの数時間で、あっけなく、跡形もなく崩壊しちまったと感じた。
 それどころか、退院後の生活そのものには、体操というものがさっぱりかかわってこなかった。偶然そうなったのか、無意識のうちに恐れて避けていたのか。どうも後者のほうが理由として相応しいように思えてならなかった。






 そして、今では俺の中で体操というものは、自分の記憶とテレビの映像以外には、存在しないものになった。











 あれから2年。
 とりあえず高校には無事に入学したものの、真面目ぶっているのがつまらなくなり、非行に走り始めた。自分を貶めたがる人間になった。
 自分の名前がうざったくなり始めたのも、この時期からだった。綺麗すぎて派手すぎるこの名前に対して、苦い記憶に怯える自分の姿が、あまりにも釣りあわないから。そう感じるだけでどうしようもなく苦しくて、うざったい。そう思うとさらに自分を貶めたくなる。
 そんなことを繰り返して、今の俺が出来上がった。不真面目で、煙草だって平気で吸うし、表には出たがらない。そんな性格の人間に、俺はなった。
 体はなまりきって、もう体操の世界には戻れないだろう。戻ろうとしたところで、モラルのかけらもない今の俺を受け入れるほど、体操の世界は甘くないだろう。
 もう戻れないとわかっているのに、それでも俺は体操選手時代の記憶を消し去ることができないまま、今を生きている。



「マサ」



 そんな俺に、未だにかけられる声がある。
 振り向くと、2年前より少し体が大きくなって、昔よりシャープな印象を抱かせる男の姿があった。その体が制服じゃなくてユニフォームを着てりゃ、一層そんな印象を強めたかもしれないが――俺は高校に入ってから、その姿を見たことがない。
 ああ、またかと思いながら、苦笑しつつ俺は口を開く。
「なんだよ、リュウ」
「なんだよじゃねえよ……お前、まだくすぶってんのかよ」
「昨日も聞いたなァ……1日で簡単に心変わりなんかしねえよ」
 返す言葉も気だるげなのが自分でよくわかる。俺は煙草の煙を真上にゆっくりと吐いた。
「もったいねえよ」
「何がだよ」

「お前、本当にこのまま終わっちまう気かよ?」

 対して、隆輔の声は切実だった。心底からの願いを口にして、俺に叩きつけているような――うざったい。正直、本当にうざったい。けれど、切実であればあるほど、冷たく撥ね付けることができるほど、俺は精神的に強くなかった。
 だから、返す言葉にはほんの少し、申し訳なさが混じった。



「終わるんじゃねェ。……もう、終わったんだ、俺は」



 隆輔には申し訳なくもあるが、本当に俺はそう思う。だからこそ、体操というものからはかかわりをきっぱりと断ったつもりだった。
「……んなこと言うなよ」
「事実だよ。……俺はもう、立てない。怖い。どうしようもなく、な」
「なんでだよ……戻ってきてくれよ、なあ」
 あくまでも隆輔は懇願する。俺も、怖い立てないと言い続けてきている。そのまま、話は平行線を辿る。
 こいつの懇願は、今日が初めてのことじゃない。どころか、同じ高校の中で鉢合わせてから、ずっと言われ続けてきた。
 始めの頃、訊いたことがあった。どうしてそんなに俺にこだわるんだ、と。
 返ってきたのは、お前の姿が忘れられないからだという言葉だった。隆輔はまだ、俺という人間に夢の姿を求めていた――もうそれは、砕け散って無くなっちまったっていうのに。



「……もう、忘れろよ、お前は。俺にかかわってる暇あったら、練習行けよ。お前ならトップ行けるって」

「お前に言われるとかえって悔しいんだよっ……あの時までお前がトップだったっ!!」

「昔の話だよ。そっから転げ落ちたトコだって、お前、見てるだろ」



 悲鳴のような声にも、俺はもう何も感じなくなっていた。何を言われようと、もう、体操の世界に戻る気はない、戻れない。
 表情から見ても、隆輔はぐっと言葉を詰まらせていた。今更俺にかかわらなければ、そんな表情することも無えだろうに、と思う。
 話の結末は、いつもこうだった。



「……頼むから、もう忘れてくれよ、マジで……お前まで駄目になっちまうよ」



 体操そのものも、怖い。が、それより怖いものがある。俺にこだわりすぎるこいつが、そのあまり体操に集中できなくなって、それでもし何か影響が出たりしようものなら、顔向けすらできなくなる。
 なのに今、俺は何をやってるんだろう。結局、言葉を撥ねつければ隆輔は傷つく。こいつを満足させるためには、素直に復帰してやるのが一番なんだろうとわかってはいる。が、その選択肢はどうしても選べないことも、俺にはわかっていた。



「……忘れ、られっかよ……」



 いたたまれなくなってその場を去ろうとした俺の背中に、隆輔の悔しげな声がぶつけられた。それも無視するようにして、俺は早足でその場を去った。











 夢はもう、とうの昔に砕け散った。
 今の俺は、もうその残骸でしかない。
 姿形だけはそのまま残ったが、中身はスカスカになっちまった。






 過去の悪夢を、なくしきることもできない。
 そして過去に捕らわれて、新しいスタートを切ることもできない。
 中途半端な形で漂っている、夢のかけら。
 ただ生きてるだけ、そこに意義なんか何もない、本当に中途半端な存在、それが今の俺。











 そして俺は、今日も中途半端に生きてゆく。













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