あなたは自らの生活を振り返ったことがありますか?

 自分の人生はすばらしいものだと、言いきれる自信はありますか?











































 狭い我が家の玄関の前に立つ。

 鍵を開けて中に入る。
 

 雨で濡れた服を脱ぎ、ハンガーに通して窓際に吊るす。
 その時に、雨が窓を打つ音がやかましいほどに聞こえてきた。今夜の雨はかなりの勢いらしい。

 吊るした服を見ると、濡れ方がひどいような気がした。このままでは、明日は生乾きのスーツを着て出勤しなければならないのだろうか。それはちょっと嫌だ。
 そんなことを考えつつ、私は台所でインスタントラーメンの準備をしていた。



 数年、インスタントやレトルト食品の類しか、家では口にしていない。それに、昼も社員食堂のうどんで済ませる。それが一番安いからだ。
 それで、私は他人からは働きすぎだとあからさまに心配されるほど働いている。いつ倒れてもおかしくないと自分でも思うので、その覚悟は昔から決めていた。
 

 死にたいわけではない。が、このまま生きていたとしても、朝早くに起き、会社に行って働いて、時間が来たら家に帰って休む、そのサイクルを繰り返すだけであろう。
 面白くもなんともない人生である。
 

 インスタントラーメンが出来上がるのを待つ間、私の家には、水が沸騰する音と、雨が激しく窓を打つ音が響いていた。







 今夜、雨は強く降っていた。










































 翌朝。



 朝から嫌な思いをする事になった。

 懸念したとおり、スーツは生乾きだった。ドライヤーでも使っておくべきだったか。そうしなかったのは疲れていて作業をやるのが億劫に感じられたからだが、私は後悔した。

 しぶしぶスーツを着用する。生乾きゆえか、今日のスーツと感触はなんだかねっとりとしていた。ひどく不快だった。



 雨は今朝になり、やや小降りになっていた。


































「おい、坂村」
 名字を呼ばれた。坂村とは私のことだ。仕事している手を一旦止める。

 声をかけられたほうに顔を向けると、同僚の志村の顔があった。確か、俺は絶対に恋愛結婚するんだーと声高に宣言していたような。冗談のような話だが、宣言したのは事実である。

「なんだ?」

「な、最近入って来たあのコ、かわいいと思わねぇか?」

 私は溜息をつきたくなった。志村はいつもその手の話ばかりをする。

「俺にはどうでもいいことだ。あんまり巻き込まないでくれ」

「チェ、愛想ねぇなあ、いつもながら」

「状況を考えてものを言ってくれ。今は仕事中だ」

 私がそう返すと、志村は不機嫌そうにしながらも黙って仕事に戻った。
 

 忙しく書類を手分けていきながら、私はふと考えた。
 あれはいつだったか。実家に帰ったときだった。
















「こんにちは」
 淡白な声で、私は実家の玄関に上がった。

「まあ、久しぶりね〜一宏ちゃん」
 名前を呼ばれた。一宏とは私のことだ。

 もう20代の男をちゃん付けで呼ぶのはやめてもらいたいところだったが、私は何も言わずに少し笑って会釈をする。

 母は確か、このときはまだ40代の前半だったような気がする。今は後半になった頃だろうか。母親としてはとても若い。

「どう、会社勤めになってからうまくやれてる?」

 私は頷く。実際のところ、このときも今も、私の生活サイクルは全く変わっていない。

「そうかい、そりゃよかった。けど、お前さんに関しては浮いた話をとんと聞かないんだけどねぇ〜」

 私にその気がないからである。母にその事は言っていない。

「はぁ、はやくおばあちゃんになりたいもんだねぇ。そうすれば、孫というものをこの手に抱けるのに」

 母はそんなことを言った。夢、というやつらしい。そしてその夢をかなえる期待は私が担う事になっている。
 母の元に子供は私1人しかいないからだ。つまり、母は暗に、私に「早く結婚して子供作れ」と言っている。

 さっき、私にはその気は無い、と私は言った。その気は無いとは、結婚する気は無いと言うこと。ゆえに私は親不孝者なのだろう。
 そのことを知らないがゆえ、母は笑っている。知らぬが仏、とはよく言ったものだと思った。














 考え事をしながら仕事をすると、時間が経つのは早かった。
 仕事はもう一連の流れを持った作業なので、考えるまでもなく身体がその流れを覚えてしまっていた。
 仕事をしながら別の事を考えていられたのはそのおかげだ。

 私が「時間が経つのは早かった」と表現したのは、時刻がもう昼休みを迎えていたからだった。

 私は軽く書類整頓を済ませてから、部署を出た。





























 社員食堂。

 麺類、飯類は最低限のもの―――うどんやラーメン、焼き飯カレーに丼物など―――がそろっているこの食堂で、私はいつものように狐うどんを注文する。
 最も安いメニューなのだ。最も安いもの以外を、私はこの社員食堂で食べる気にはなれなかった。

 そもそも、ここで金を使う事自体が私には馬鹿馬鹿しい行為のように思えた。

 少し待ってから、目の前に狐うどんの入った丼が置かれた。

 私はやや慎重にそれを持ち、空いている適当なテーブルの椅子に腰を降ろした。

 そこから先もまた、私にとっては作業だった。

 遅くはないが早くもないペースでうどんをすすり、うどんがなくなった後はだしを飲み干し、空になった丼は所定の流し口に放り込む。

 私の昼食はそれで終わりだった。
































 午後、仕事中。志村に話しかけられることもなく、PCの機械の音や書類をめくる時の音がひっきりなしに響くこの部署で、私は働いていた。

 同僚に話しかけられることがないからと言って、仕事に集中できるとかそう言うようなことは思わなかった。

 繰り返すが、仕事はもはや私にとっては一連の流れを持った作業なのであり、身体が覚えてしまっている。
 仕事をしながら別の事を考えたり周囲に聞き耳を立てたりすることは、私にとっては難しい事でもなんでもなかった。

 また、ふと考えた。














 そういえば一時、同じ部署の中で、アイツ――私は自惚れ屋だとか言われていたような気がする。

 無愛想で、誰と言葉を交わすのも嫌う。そのくせ仕事の業績だけはいい。ヤツ――私の無愛想は俺たちを見下してることの表れだとか言われていた気がする。

 私はそれを認めていた。同時に、仕事の出来ない人間の愚痴だと聞き流していた。実際、噂を立てた者達は私より業績を上げていなかった。
 私がトップだったのだから当たり前だ。―――噂の中で、自惚れ屋の部分だけは心の中で否定していたのだが、今の思考を振り返ってみると、否定しなくても良かったかと思った。

 見下す以前に、私は周囲の人間に興味を持たなかった。

 業績がいいのは、ただ単純に「作業」の手順を間違えることなく繰り返していたら、いつの間にかそうなっていた。






















 時間が経った。また、早かった。

 時計を見ると、もう終業の時間だった。今日は残業が無い。もっとも、あってもなくても私は真っ直ぐ家に帰るだけなのだが。

 周囲の人間に興味は無い。というより、私は何にも興味が無い。

 私はデスクを片付け、その場から立った。









































 帰りは1、2時間ほど電車に揺られる。そして最寄の駅から徒歩で10分ほど歩いて、私は安アパートに戻る。

 帰りの雨は、またしても勢いが強かった。

 仕事中にいつの間にか乾いていたスーツが、10分で再びずぶ濡れになった。

 しかし、それは昨日ほど気にならなかった。

 昨日と同じようにしてスーツを干す。これもやはり、今の私にとっては「作業」の1つに過ぎなかった。

 いつもと同じように、夕食となるインスタントラーメンの準備をする。

 全く昨日と同じく、家の中には、水が沸騰する音と、雨が激しく窓を打つ音が響いていた。

 今夜も、雨は強く降っていた。










































 昨日と今日、そして明日。

 相違点は、とても、とても些細なもので。

 結局、同じ日を繰り返すのだろう。























 明日もまた、今日という日を繰り返すだけなのだろう。

 そして明後日は明日という日を繰り返すだけなのだろう。









































 果たして、私は生きているのか?
































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