だが、平助ら7人は夫々に変装して、江戸市中250qに向かって出発した、幾多の困難を乗り越えて、「直訴状伝達」と云う初期の目的・大業を見事に貫徹した。 平助は一人息子、青年真っ盛りの20歳と云う。
 松代藩ではこの事実を極めて重大視した、やがて助弥ら首謀者一行は捕えられた、長野市寺尾・鳥打ち峠にて「磔・打ち首獄門」と決定した。 処分者は名主を含め1000人?という大事件であった。
 助けを求めてやってきた善光寺平の多くの村人や子供達が泣き叫ぶ中で彼らは刑場の露となって果てた。

 
刑場で最後の言葉は?と問われ「助弥達は役人を睨み付け「2斗8升だぞー」絞るように吐き出した叫び声は大地を揺るがし刑場の隅々までこだました。
 やがて、江戸幕府の強い指示もあって年貢米は「1表につき2斗8升」に改められた。村民たちの喜びは譬えようもない。だが、断罪された平助らを讃えることは絶対にゆるされない。
 なぜなら平助らは松代藩指定の極悪人として、幕府は以後200年もの長きにわたって見張りが続けられ、関係書類は悉く焼却処分された。残されたのは口伝のみで今日まで来ている。
 今から340年前、日本の歴史を動かし、善光寺平を救った南俣を代表する超一流人物「南俣村・平助」を南俣神社の一隅へ「平助天神社」を建てて、祀りたいと私は念じています。 かくして、遥か遠い浄土に眠る「南俣村・平助」の供養になればと望外の喜びであります、 合掌!!。
    
                                      『資料・文責は峯村清志』

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            直訴状  「南俣村・平助」ら17人の方円型の署名
             
 江戸時代「寛文・延宝(1661〜1680)の頃、善光寺平36ケ村を舞台に松代藩の赤字
財政・悪政に伴う年貢の引き上げに敢然と反旗を翻して抗議する若き勇気ある青年の
一団があった。 いわばその時、歴史が動いた物語です。
 それも大変身近な我が南俣村を含めた古牧地区を中心に血気盛んな若者たちが百
姓一揆なる集団を組織して、死を以って抗議の活動を展開したから驚きである。
 左は若き英雄「南俣村・平助」たち17人による署名入りの江戸幕府あての直訴状(所
有者ミネムラ)であります。誰が首謀者か判らないように署名の仕方が円陣に工夫され
た極めて貴重な子文書であります。

「峯村清志」一行(郷土史研究会) 「南俣村・平助」らの 刑場跡を訊ねる


 百姓一揆参謀・我が町の義民「南俣村・平助」物語
「南俣村・平助」刑場の露と消える
今から340年前 その時 歴史は動いた

平成25年春季宵祭り4ケ宅で好演する「南俣こども神楽」

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善光寺にある「千人塚」はひっそりと事件を語る

松代藩の年貢米は籾1俵につき2斗8升であったが延宝元年(1661)より「3斗の玄米を年貢として収めよ」と厳命が出された。百姓にとって最も苦難な忍びがたい時代が続いた。
 「このままではおらの村から死人が出るぞ」善光寺平38ケ村の名主たちは2斗8升にしてもらうよう民百姓の窮乏を救うため立ち上がるが、全く徒労に終わり、疲れ果てていた。 
 万策尽きた百姓達の代表でもある「南俣村の平助
堀村の伝兵衛、下高田村の助弥」達は夜、密かに善光寺の堂庭に集まり夜を徹しての協議の結果 「江戸の将軍様に直訴」 を決める。直訴は藩の重罪、名主をはじめ家族全員が死罪になるぞ、と、 猛反対された。

「南俣村・平助」らが磔(はりつけ)打ち首となった当時の刑場 [長野市寺尾・鳥打ち峠] 跡地を訊ねる峯村清志ら一行。
処刑から340年後、江戸幕府が倒れて明治に入り、地元関係者によって写真のような墓が漸く刑場付近に建てられた。

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